聖書 列王記上12章1~33節
ルカによる福音書6章20~36節
説教 平和の共同体の心得「人がなすべきこと」
列王記はその名の通り、イスラエルの歴代の王について書かれています。ダビデからその血を引く王たち20名(ユダと北イスラエルと分裂した後はユダの王となりますが)と、分裂した北イスラエルの初代の王ヤロブアムから19名の王たちの記録となります。本日の列王記にはイスラエル王国の分裂について書かれています。分裂の原因はソロモンの子のレハブアムが民に重税と賦役を課し、民衆が税や賦役を軽くしてくれと王に願うにも関わらず、聞き入れず、民衆を苦しめたからです。イスラエルの民はダビデの血を引かないヤロブアムを王として立てました。ヤロブアムはヤロブアムで人々を自分の王国北イスラエルに引き留めるためにユダ王国にあるエルサレムの神殿に民が行って礼拝しないように、金の子牛を2体作りベテルとダンという地に置き、民に言いました。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上った神である」。レハブアムは弱い民を重税と重い賦役で苦しめることで神の御心をないがしろにし、ヤロブアムはその苦しみから逃れるために分裂させたは、良かったかもしれませんが、金の子牛をイスラエルの神として礼拝させたことは、十戒違反です。さらにヤロブアムは民の祭りを自分で勝手に定め、自ら祭壇に上ったとあります。ヤロブアムは自分を神同様にしていったと思われます。結局、この2つの王国は滅びに至るのですが、その原因が十戒を中心とする神の命に王が従わなかったからだということを列王記の編集者は伝えているようです。
さて、新約聖書になりますと、神イエスは王に関わるより、民衆に直接関わります。しかも、社会的に追いやられている人々、差別されていた障碍者や病人、嫌われていた徴税人や異邦人などと関わり、癒したり、雑談したり、共に食事をしたり、教えを語ったりしてました。本日のルカ福音書は山上の垂訓と言われるところのルカ福音書版ですが、ここで語られている人々はどういう人々かと考えてみますと、貧しい人、今飢えている人、憎まれている人々へ語っているのです。その人々にイエスは何と言っているか?ルカ6章27節から36節がその中核なのですが、以下に上げます。
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
この言葉は聖人君主に向けられた言葉としても考え物ですが、イエスはこの言葉を貧乏人や今飢えて死にそうな人や周囲から憎まれている人、障碍者や病人、社会的弱者に向かって言っていると思われます。これは驚くべきことです。こういう言葉は本来なら王や国家の支配者やリーダーが心得るべき言葉であるという神学者(廣石望)もいます。イエスはこれを虐げられて支配されている民衆の末端へと語るのです。そういうことから考えますとこの言葉は支配者から被支配者まですべての人々に語りかけられている神の言葉となりましょう。
敵を愛すること、これをどんな人でも行っていけば、必ず、報いを受けるこの世の処方術なのだとイエスは語っているようです。さて、みなさんはどうされますか?
みなさまの祝福を祈ります。