列王記上11章1~43節、ルカによる福音書11章1~13節
説教 平和の共同体の心得「求めよ」
本日の聖書列王記には、「ソロモンの背信とその結果」と見出しがつけられています。世界一の富と知恵を有した(歴代誌下9章22節)にも関わらず、異教の妻のとりこになって、豊穣多産の神と言われたらしいアシュトレトやミルコムの神に従ってしまいました。特にミルコムの神には子どもを人身御供(生贄として捧げること)としていたらしい。これは十戒違反。ソロモンの背信です。その結果、敵対する他国の王たちやイスラエルの民の中から敵対するヤロブアムという者が出現してきました。そして、その後、イスラエル王国は北イスラエルとユダに分裂していくことが列王記12章以下に示されていきます。
この個所は信仰者と自認している私の目からみれば、愚かなソロモン非情なソロモン欲望に振り回されるソロモンと見てしまいがちです。大昔のことで自分とは無関係なことと見てしまいがちです。しかし、今現在、こうした背信を私も含め、多くの人がしているのではありませんか?富を得たい、知恵を得たい、優秀な(支配者となる自分に都合のよい)子孫が欲しい、そういうことができるなら、努力しよう、犠牲さえ払おうという気持ちがあるのではないでしょうか。ひ
どい時にはうるさいから、障害があるから、自分の子どもを虐待し死に至らせたり、会社の利益を上げるために過労死するまで働かせたりするではありませんか。人身御供より酷い人権蹂躙ではありませんか。れっきとした十戒違反、背信行為ではありませんか!
本日のルカ福音書には、祈りについてイエスの教えが示されています。「御名(神様の本質)が崇められますように。御国(神の意志が実現される世界)が来ますように。わたしたちに食料を与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈るようにと言います。これは『主の祈り』と言われキリスト教の礼拝で祈る伝統となっています。そして、さらにイエスは「求
めよ」と語るのです。この「求めよ」という言葉は自分自身に起こるように「求めよ」ということだと思います。『主の祈り』にあるように自分が成せ、ということなのでしょう。『主の祈り』を祈る共同体は不信仰でかつ貧しく、裁き合い、誘惑に陥りやすい共同体です。わたしたちとは全人類を表していると解釈します。
神様は私たちに「主の祈り」にある内容を祈り求めていく暮らしを勧めています。ソロモンのように背信に走ると苦しみが生じていくように思います。わたしたちもソロモンのように背信状態にいるのは現実だと思いますが、主の祈りにあるように祈り、それが実現するように求めていくこと、暮らしの方向を背信へと舵を取るのではなく、十戒などの神の教えを守っていけるよう祈り、求めていく方向へ舵を取っていくことが、我々の暮らしを苦しみから解放し、自由と喜びと感謝を与えてくれる生活に繋がると思います。これは私の日常の小さな体験を通してもそうです。
みなさまの祝福を祈ります。