列王記2章1~46節
マタイによる福音書13章24~30節
説教 平和の共同体の心得「神の悪しき者の除き方」

私たちの社会は自分の社会に害になると思うものを排除する傾向があります。毒物や汚物や病原菌は排除しようとします。天然痘は全世界からウイルスが撲滅されたとされています。命を脅かすようなものをさけることは自然界にみられることです。また、現実に人が人を排除するようなことがらも生じます。犯罪を犯した人を逮捕し、裁判にかけ、処刑したりすることもあります。ドイツではヒットラーがユダヤ人をこの世から排除しようとしました。北朝鮮では、支配者の方針に従わない者を粛清するということも生じています。日本でも差別によって部落民が村八分のようされたり、できた子供を堕胎したり、最近、報道が多いいじめも排除思想が根底にあるように思います。テロ等組織的犯罪処罰法(共謀罪)も日本の国の支配権力者側に不利になるような人たちを排除しないといけないという思想が根底にあるのではないかと思います。

本日の列王記にはダビデ王が次の王になる王子ソロモンへの遺言が書かれています。そこには主の掟と戒めと法と定めを守れということと、甥のヨアブのように王の意に反することをしたり、シムイのようにダビデを呪ったりしたものを粛清し、王に対して助けてくれたものには手厚くもてなせというようなことでした。ここに矛盾があります。主の掟には十戒もあり、そこには汝殺すなかれという掟も含まれています。しかし、ダビデは王の側に不利になるような者を殺害せよとも命じているのです。ここに主の戒めを知りつつも王国の世襲を守るには粛清もせざるを得ない現実を見る思いです。粛清についてはまるで今の北朝鮮のようです。ソロモンはダビデの遺言を受けて、怪しい者も含めて粛清を行っていきました。

現実の人間社会の中では、悪しき者を排除していくことは一見間違っていないように思えます。しかし、本日のマタイによる福音書の個所の『「独麦」のたとえ』を読むと人が悪しき者を排除するのは神の思いではないということが見て取れます。良い麦の中に生じた独麦を僕たちは抜き集めましょうかと主人に尋ねるのですが、主人は言います。「いや、独麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(マタイ13:29)と。善人も悪人も両方共存するようにせよということを語っています。その理由が独麦でない麦も誤って抜いてしまうかもしれないからということです。つまり、人は他者に善悪の判断をつけることができないということを意味しているのではないでしょうか?裁きは主に任せ、みな誰もが育つような環境作りをしなさいというように私は受け取っています。

神の悪しき者の除き方は私たち人間がやっている除き方とは異なります。悪しき者とは誰なのか、私たち人間には決めることはできないので、後に来る神の裁きに任せること。生きている間は、それより、誰もが一生を全うできるようなこの世の環境を創っていくこと。この2つが、悪しき者を取り除く神の業なのだということを本日の聖書の個所から学びました。

みなさまの祝福をお祈りいたします。