聖書 サムエル記下14章1~33節
マタイによる福音書18章21~35節
説教 平和の共同体の心得「罪を赦す」

 罪の赦しほど私が疑問に思う事はありません。罪には相応しい罰が与えられるのが当然だと思います。「目には目を、歯には歯を」の方が筋が通ると思います。しかし、聖書には一貫して罪の赦しが記されています。 
本日のサムエル記下14章にはダビデ王が息子のアブサロムの兄弟殺人を赦すことが記されています。ダビデはこの殺人犯アブサロムを赦しましたが、その後、このアブサロムによって謀反を起こされ、命と王国を狙われるようになってしまいました。人の罪を赦したとて平和になるわけではないのです。本日のマタイによる福音書には、「仲間を赦さない家来」のたとえが記されています。1万タラントン(約6兆円)の借金を王から帳消しにしてもらった家来が100デナリオン(約100万円)を貸している仲間に借金を返せと迫り、返すまで牢に入れたというたとえが記されています。自分は赦されても他者を赦さない非情な人間社会を浮き彫りにしている現実が描かれています。イエスはこのたとえを語る前に「7の70倍まで赦せ」と言います。徹頭徹尾赦せ、裁くなと語っているのです。
 先日シリアで反政府の街に空爆を行い、しかも、国際法で禁止されている化学兵器が使われ子どもの命も含め100名を超す命が奪われたようです。アメリカのトランプ氏は報復としてシリアの政府側の仕業とし基地へ空爆しましたが、その気持ちも分からなくはありません。
 しかし、聖書からすると罪を赦せ、と頭から語りかけてくるのです。化学兵器で子どもも含めて殺傷したものを赦せというのか?そして、それで、赦された方は改心して人の命を慈しむ人になるのかというと、本日の聖書ではそうはならないことがあり得ることが示されています。
 では、なぜ、赦せと?馬鹿らしいではないか。イエスはそう考える私たちによって十字架刑に処せられたのだと思います。イエスは十字架につけられながらも、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と言ったとされています。この状況下にあってもイエスは「7の70倍までも赦せ」と言い残しているのです。私の赦せない心は、平和の君なるイエスのこの言葉に悩まされるのです。果たして赦していいのか。赦すなという私自身と戦わざるを得ないのです。そして、苦しむこともあります。最終的には神様に祈らざるを得なくなります。どうか、御心のままにと。私の小さな経験上、奇跡的に赦した後、穏やかな心と平和が与えられることも経験することでもありますが。

 みなさんの祝福を祈ります。