聖書 サムエル記下10章1~19節(旧約p493)
マルコによる福音書3章20~30節(新約p66)
説教 平和の共同体の心得「内輪もめをしない」

 本日のサムエル記下には、ダビデの軍隊とアンモン人とアラム人の軍隊との闘いが書かれています。ダビデははじめアンモン人と敬意を表し、仲良くしようと思っていたのでした。アンモン人の王が亡くなったので、ダビデは哀悼の意を表そうと思って使節を遣わしました。ところがアンモン人の高官たちはダビデが自分たちの国を奪うつもりだという猜疑心にかられ、使節として行ったダビデの家臣たちを捕え、髭を半分そり落とし、衣服も半分、腰から下を切り落として追い返しました。ダビデ側は甚だしい屈辱を受けた訳です。それを発端にダビデの軍とアンモン人の軍が交戦状態になるのですが、アンモン人はアラム人の援軍を要請したのです。斯くして、ダビデ軍対アンモン人とアラム人の連合軍の戦争となったのです。ダビデ軍は勝利を納め、アラム人はダビデの王国イスラエルに隷属することになり、アラム人は二度とアンモン人を支援しない状態になりました。この出来事でこれら3者の溝が深くなってしまったようです。ところで、このアンモン人はアブラハムの甥ロトの子孫です。また、アラム人とは今のシリア辺りの原住民ですが、イエスはこのアラム人の話すアラム語の方言を話していたといいます。私が思うにこれら3者は本来共に支え合って生きるべき人々で戦って殺し合う人々ではありません。聖書編集者はそのことを意図してか意図していないかは分かりませんが、聖書から見て3者には仲間であっておかしくない関係がありました。 
 本日のマルコによる福音書には、平和作りのヒントが示されています。イエスはいろいろな病気や障碍を癒していました。また、同時にイエスがやっているように人間社会から排除された人々と共生きることが神の国の業だとか、神様の御心だとか、人間の義務だとか、話していたのでしょう。それを見たり聞いたりした人々は「イエスが気が変になっている」と言いふらしていたようです。イエスの身内はイエスを押さえようとして家にやってきます。またエルサレムの律法学者たち(恐らく権威ある人たちなのでしょう)も来て、「あの男はベルゼブル(悪霊の支配者)に取り付かれている」と言い、また「悪霊の力で悪霊を追い出している」と言うのです。イエスは狂人やサタン扱いされ、まったく相手にされていません。病人や障碍者を大勢癒しているというのに。
 そこでイエスの回答が告げられます。要約すると、「私はサタンではない。みんな仲良くやろうよ。特に内輪もめはいけない。家も国も内輪もめして争えば滅びる。人々が犯す罪で赦されないものはないのだから赦し合って内輪もめしないようにしよう」ということだと思います。(29節に「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず。永遠の罪の責めを負う」とあるのはイエスのあまりにもラディカルな教え「すべての罪は赦される」に耐え得ない初期のキリスト教会の人たちの付け加えだろうとのこと。田川著:新約聖書訳と註Ⅰp198)
この回答にどれだけの人が賛同したかは分かりません。まったく賛同者はなかったのかもしれません。すべての罪が赦されるのなら、ならず者が跋扈して社会は彼らのいいように振り回され、無秩序になり、滅んでしまうとみんな思っていたのかもしれません。しかし、イエスはここではっきり「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉もすべて赦される(マルコ3章28節)」と言われているのです。
 以上から平和の共同体の心得を考えてみますと、「内輪もめしない」ということになりましょう。最も身近な人との間に生じる罪や自分に向けられる冒涜の言葉をすべて赦し合い、仲良くなることが家庭や地域社会、国家や世界の平和となり得ることを本日の聖書から学んだように思います。
 みなさまの祝福を祈ります。