聖書 サムエル記下1章1~27節(旧約p480)
   ローマ信徒への手紙5章12~6章23節(新約p280) 
説教 平和の共同体の心得「罪を赦されてから」

 聖書を文学作品として読むとき、サムエル記特に読みごたえがある書物なそうです。人間的な愛と憎しみ、信頼と猜疑、友情と嫉妬、忠誠と裏切り、権勢欲と性の衝動、権謀術数と革命などにかかわるさまざまな「人間臭いドラマ」が縦横無尽に展開されるといわれています(新共同訳旧約聖書注解Ⅰp487)。
 本日のサムエル記下の個所も文学としての題材になりそうな個所です。サウルとサウルの子ヨナタンらの死を告げに来たアマレク人の寄留者の若者をダビデは殺しました。その理由は、この若者が、自死しようとして死にきれないでいるサウルから頼まれて死ぬのを助けたからです。ダビデは彼にいいました。「主が油注がれた方を、殺害するとは何事か」と。そして、ダビデはサウルとヨナタンの哀悼の歌を「弓」と題して詠んだのです。映画のワンシーンにでもなりそうな個所です。
 しかし、これをこのまま私は受け入れることができません。ここからの解釈のしようでは、主が油注がれた命は、このアマレク人の命や主から油注がれていない人の命より尊いような感じを受けます。そして、こういうところから、神に選ばれた者は尊く、神に選ばれない者は尊くないとか、クリスチャンは尊くてそれ以外は尊くないというような人権の差別思想へと向かわせるような危険な読み方へとも発展しかねません。しかし、同じ聖書に十戒の「殺すな」、レビ記19章の「復讐するな」などすべての命に対して尊さを訴えるところもあります。新約聖書では「敵を愛せ」という教えまで出てきます。ですから、ここでダビデは十戒の「殺すなかれ」の違反者ということになります。ダビデは罪を犯しました。ダビデはそれを知らずに、サウルとヨナタンへの思いに耽り、哀悼の歌を詠んだのだと私は解釈します。
 私たちの世界では殺害を含む事件がたくさん起こっています。アダム以来人は罪を犯してしまう罪人もあることは歴史や現実の世の中を見ればその通りだと思います。本日のローマ信徒への手紙にはこの罪だらけの世と関わり、イエスは十字架につけられ、あらゆる罪(おそらく過去、現在、未来を含めた罪)を贖いました。よって我々は罪を赦され、永遠の命を得ました。罪を赦されるのだから何でもやっていいかと思うかもしれません。そうではありません。本日のローマの信徒への手紙では罪の奴隷ではなく、義の奴隷になれと勧めています。
義の奴隷とは、神の言葉に聞き従おうという人のことでしょう。十戒を守ったり、復讐しなかったり、敵を愛そうとしたりそういうことを実践していこうとする人のことです。罪深い世からみたら馬鹿らしいと一笑に付されることかもしれません。神様は罪深い歴史の中に直接に、あるいは預言者を通し関わり続け、神に従う人を罪人の中にお立てになっているのでしょう。サムエル記の場合は預言者サムエル。サムエル記にはダビデのことが主人公的に書かれていますが、罪を犯したダビデと読むこともでき、もっとも重要に扱われなければいけないのが神の言葉を取り次ぐサムエルだと思います。「サムエル記」という命名した人々は、神の言葉をこの世に提供することの重要性を示しているように思われます。神の言葉とその実践によってこの世は多様な価値観の人々の共生が続いているように思います。願わくは私も神に従う自分でありたいものです。神様お願いいたします。

みなさまの祝福をお祈りします。