聖書 ルツ記1章18節~22節
   コリントの信徒への手紙13章13節
説教 平和の共同体の心得「苦しみの後に与えられる希望」
 
 先日、気仙沼・南三陸栄養サポート研究会で、ある事情から、食支援の実践~施設15年の取り組み~と題して、医師や歯科医師、薬剤師や看護師、介護、福祉施設職員80人くらいの前で発表しました。たくさんの欠点を含んでの実践です。批難轟々、針のむしろに座る感じになるだろうと思っていました。はやく終わらせたいと思っていました。ところが、座長から、「感動しました」という感想です。小説や映画でもあるまいし、感動という意外な言葉に、なんで感動なんだろう?と思いつつも、感動ということばが脳裏にくっついた状態になり、「感動しました」のことばにこっちが感動してしまいました。
 私、これまで生きてきまして、不思議に思うことの一つに、集中してやっているとき、これではダメじゃないかと苦しみながらやっていると不思議にうまくいったり、予想外の結果になったりするということがあるのです。小さいころからそういう経験があります。陸上競技をやっていたころも負けるかもと思って集中した方が負けなかったりしました。最近では、先月3月に開催した講演会参加者は、はじめ2名。そこから約1月で60名を超し、予想外の成功を得たことなども不思議の一つです。私は最近、このような不思議を神様の業と思っています。
 本日のルツ記にも、そういう不思議な出来事が描かれているように思います。ナオミはベツレヘムで飢饉に遭っても、幸いにも夫と長男二人に伴われ、モアブの地に移り、食料に事欠かず、息子2人に妻を与えられるような満たされた暮らしを与えられたのだと思います。夫と2人の息子を亡くすという悲惨に遭いますが、嫁のルツはナオミの支えとなることを宣言し、ナオミの故郷ベツレヘムに同行しました。この町でナオミは温かく迎えられているようですし、2人がベツレヘムについた時は、ちょうど大麦の刈り入れの始まる頃だったと記されています。食料が手に入りやすい状況にベツレヘムはあるのです。なんというタイミングのよさでしょう。飢えに困って出て行ったナオミを大麦の収穫が始まろうとするベツレヘムが迎えてくれる、あまりにも何かを象徴しているかのように不思議に思えてなりません。私はここを「苦しみの後に与えられる希望」と解釈し、そのことを象徴している出来事だと思います。
 「信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る」とコリント第一13章13節にあります。苦しみの後には希望が与えられる!本日の聖書の個所から読み取れるメッセージです。

みなさまの祝福を祈ります。