聖書 ルツ記1章8節~18節
   ルカによる福音書10章38~42節
説教 平和の共同体の心得「多様な生き方」

ルツ記にはルツとナオミの嫁姑の美しい関係が書かれているとも読むことができます。私はそれ以上に嫁と姑の自由な生き方が、人生における自由な生き方がここに示されているように思います。
ナオミの夫はエリメレクといい、マフロンとキルヨンといい2人の息子がいました。飢饉のためこの家族は自分の生まれ故郷を離れ、異教の地モアブの野に移住します。後にまた、故郷に戻るのですが、ここに見る自由は故郷と他の地の行き来が自由にできているということです。
ナオミは夫エリメレクを亡くします。その後、マフロンとキルヨンの2人の息子はモアブの女性(異教の女性)を妻とします。マフロンはオルパを、キルヨンはルツを妻にします。結婚も宗教にこだわっていない自由が伺えます。
しかし、2人のマフロンとキルヨンは亡くなり、ナオミとオルパとルツの3人だけになってしまいました。この未亡人3人では、当時は男が家庭の収入を得、女性は家庭を守るという慣習でしたから、行く末が真っ暗になってしまったと思います。これからどうするか・・・ナオミはそれぞれ生まれ故郷に行って、そこで、新しい暮らしを始めることを提案します。当時の結婚制度にレヴィラト婚(寡婦が死亡した夫の兄弟の妻となる習慣)がありましたが、ナオミ(おそらく40歳は過ぎていたでしょうから)には子供もなく、レヴィラト婚もできないということもあり、ナオミはオルパとルツに自分と別れ、自分の故郷に帰るよう説得したのだと思います。若いオルパやルツには再婚のチャンスもあるだろうというわけです。当時のイスラエルの律法には、貧しい人や孤児や寡婦を守る社会保障制度がありました(なんとすでに!)。落ち穂拾いをして暮らしを立てることができるようにされていたようです(レビ記19章9‐10節、23章22節、申命記24章19節)。ナオミはおそらく自分ひとりこの制度で暮らそうと思っていたのかもしれません。オルパとルツはナオミを尊敬し、ついていきたいと強く思っていたようでしたが、ルツの再三の説得により、オルパは自分の故郷に帰ることとにしました。ルツはそれでもナオミと一緒にベツレヘムに行く意思をナオミに告げます。同行の決意が固いのをみてナオミはルツと同行することにしました。ここでもオルパとルツは自由意思を与えられえいたように思います。

さて、本日の新約聖書のマルタとマリアのお話しです。マルタがイエスを自分の家に迎え入れました。マルタはいろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていました。この家にマリアというマルタの妹がいましたが、妹はイエスの足元に座って話に聞き入っていました。マルタはイエスに近寄って言います。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようおっしゃってください」。イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」と応じました。ここのお話ではマルタとマリアどちらが正しいかは書かれていません。しかし、マルタとイエスはかなり気軽に話せるくらい中がよかったようです。もてなしを手伝ってもらいたいなら、普通は妹のマリアに言うはずです。「マリア、ちょっと手伝ってよ」という具合にです。しかし、マルタは客人のイエスにいうわけですから、イエスとは友達みたいな感覚だったと思います。イエスもマあルタに「まあ、そんなこと言わんで、俺の話を聞きたいっていうんだから、したいようにさせてやってよ。必要なことは神の言葉を聞くことなんだから。」みたいな会話だったんじゃないかと思います。イエスはここで主のことばを聞くに当たってはマリアのようにじーっと聞くことと、せわしく働いて主に直接小言を言い、返答をもらう出来事(ここでも神イエスのことばを聞くことというただ一つの必要なことができている)どちらも重要なことだと言っているように思います。

本日の聖書から主と共に歩む生き方はそれぞれ自由な生き方のように思え、実に多様性があるということを私は学びました。異教徒の土地に住むこともあり、同じ宗教の人たちと住むこともあり、異教徒との結婚もあり、嫁と姑がともに歩むことも、別々に歩むこともあり、イエスの話を聞く聞き方にも、じーっとイエスのそばで聞くこともあり、イエスのおもてなしをしながら、心をあれこれ乱しながらも、イエスとの会話の中でイエスの話を聞くこともあり得る、ということ。ちょっと飛躍しかもしれませんが、主と共に歩む生き方には多様性があるということが、本日の聖書からメッセージとして受け取ことです。長々と失礼しました。お読みくださり、ありがとうございました。

みなさまの祝福をお祈りします。