士師記1章1~2章5節、ローマ信徒への手紙7章13~25節
平和の共同体の心得「罪びとでありつつ」

 本日から士師記に入ります。士師というのは中国聖書からの引用のようです。士師には裁くとか治めるという意味があり、支配者やリーダーでもあったのでしょう。その支配地域は狭く一部の部族くらいだったとのこと。王政が出来るまで、人々はどのように信仰を守ってきたかが士師に記されています。ローマ法王のような大きな支配者がいないプロテスタントの信仰者には参考になる箇所だと思います。
 本日の士師記の箇所はカナンの征服(いささか物騒な表現ですが)という記載もありますが、未征服のところもかなりあったことが強調されています(共存した場合もあったということです)。士師が立てられた理由について、イスラエルの神を捨てて、カナンの宗教(バアルやアシュトトの神に仕える)に従う人々が出てしまい、そこから救い出すからだと記されています(2章14節)
 つまり、イスラエルの民は、神様によって奴隷状態で苦しむ苦境のエジプトから導き出されたにも関わらず、その神への信仰を捨てているのです。バアルやアシュトトは五穀豊穣の神様です。経済優先の暮らしです。中にはひかれる人もたくさんいたでしょう。イスラエルの信仰は神の恵みの応答として十戒をはじめとする律法を守っていくのみが、特徴とされる宗教です。苦境に立たせられれば、五穀豊穣の神に頼ることも分からないわけではありません。
 罪深い人のために神は、どうはたらかれるかが聖書全体において書かれていることです。イエスキリストも人々を本来の神、命を大切にする神へと、人びとの意識を向けさせることだったと思います。悔い改めの勧めですね。また、その悔い改めもイエスの十字架ですべて贖ったということになっています。神の律法に対する自分の裁きは終わったのです。それを信じるように、聖書記者、聖書に出てくる信仰者のリーダーも勧めます。それを信仰の惹起とでもいいましょうか。教会はその後象徴的な存在としてこの世に生まれたのだと思います。
 神によって、神を信じる信仰者によって、世はどうなっていくかは、神のみぞ知ることですが、我々に信仰を勧めているのは確かです。できますなら、もっとできるような人間に変わりたいです。しかし、神は、信ぜよよはいいますが、犯した罪の償いはひとには負わせず、よりよく生きる事、愛すること、善をすることなどを勧めます。まことに恐縮しこれでいいのかと思ってしまいます。パウロも自分の罪の思いと聖なる神への思いの板挟みになって苦しみを訴えています(ローマ7章7-25節)。そういう罪人の中で神は働き、祝福への道と我々を導いていると思います。天になる如く、地にもなさせ給え、とわれわれは祈っています。われわれはその祈りが実現することを信じています。なんと素晴らしいことでしょうか。

 皆様の祝福をお祈りします。