ヨシュア記7章1節~26節、マタイによる福音書18章21~22節 説教 平和の共同体の心得 「赦し合う」 本日のヨシュア記には、エリコを占領したとき、アカンというイスラエルの民が、戦利品は一切取らずに滅ぼし尽くせという神の命令を守らなかったと理由で、彼の財産すべては火に焼かれ、息子、娘の家族まで巻き添えに石で打ち殺れるというリンチ事件が生じました。ここで気になることはこのリンチが神の指示でなされたと記されていることです。「汝殺すなかれ」と命じる神、天地創造、アダムとイブを創造された神の成すべき業であろうか?と疑問が湧いてきます。本日の新約聖書では、「罪は7の70倍まで赦せ」とまで語るイエス。これは、どう考えても矛盾があるところです。 ここから旧約聖書と私との格闘が始まっていきます。聖書はすべてが神の言葉ということについても闘わなくてはいけません。聖書は神について人が書いた書物であり、実際の神の言葉と人が作り上げた神の言葉の両者が混じっている書物であるという立場を私は取ります。従って今日の箇所はイスラエルの民がアカンに対して行ったリンチを神の指示でやったと書いたのだろうと考えています。 戦争の状況下ではこういうリンチはあったでしょう。北朝鮮でも権力維持のために粛清と称して、側近が殺害されたりしたようです。赤軍派の思想集団の中でもリンチはありました。いわゆるDV、いじめ、ハラスメントと言われる行為にも通じることでしょう。こういう類の破壊行為は人から出るもので神からは出ないと私は思っています。ヨシュア記は武力で自分の生活圏を獲得していく物語です。それを神の守りとしていますが、私はそれを信じていません。神は汝殺すなかれ、人の物を盗むな、奪うな、という十戒を語ったと私は信じる者です。聖書記者はここでは嘘を書いたのでしょう。おそらくこの時の聖書記者はバビロニアに捕囚された人だったのでしょう。イスラエルが亡くなってしまうのではないか、という不安がある一方、自分たちの神は自分たちを守ってくださる、そのためには神の言いつけを一つ残さず、寸分違わず守ることだと、イスラエルの聖書記者たちは考えたのではないでしょうか。それで本日のヨシュア記のような出来事を神の指示で行ったと書いてしまったのでしょう。聖書を読んだ人々に律法を守ってもらいたかったのだと思います。 私の信じる神は「赦し合いなさい」と命じる神です。武力行使もせず、多民族、他宗教の人々と平和に暮らせ、と命じる神です。特に虐げられる方々と一緒に暮らせと命じられる神です。神様がそれぞれの人々に語り掛ける具体的な言葉が大切なように思います。その言葉は、今では、「殺せ」ではなく「赦し合いなさい」だと思います。 みなさまの祝福を祈ります。