聖書 ヨシュア記6章1~7節 マタイによる福音書26章47~56節 説教 平和の共同体の心得「殺人、略奪はいけないでしょう」 旧約聖書で出てくる大問題で「聖絶」と言われていることがあります。本日のヨシュア記にも出てきますが、「エリコ」という町(城壁に囲まれている町で軍事力で守っていた町なのかもしれません)の壊滅が書かれています。しかも、イスラエルの民の武力を通して、神の命令でなされたというのです。 「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした(22節)」とあります。さらに、「彼らはその後、町とその中のすべての物を焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物庫に納めた(24節)」ともあります。助かった人たちはラハブという売春婦でイスラエルのスパイに協力した人とその親族や関係者です。この話は私の府に落ちません。エリコに攻め入るのは外部から入っていくイスラエルの民です。原住民エリコにとってはたまったものではありません。神の意志なら神に敵対したり、味方しないものを滅ぼしていいのか?という問題があります。 本日の新約聖書では、イエスを捕まえようとし、武装した祭司長に剣を差し出した者にイエスは諫め言います。「剣をさやに納めなさい。剣を取るものは皆剣で滅びる」 ヨシュア記6章にはエリコに突入する前に、十戒の入った神の箱を担ぐ祭司たちが、武装兵を前衛、後衛にし、エリコの町を1日1回周り、7日目には7回まわりあるくという奇妙なことをしています。1週間もエリコの周りをうろうろお神輿を担いでお祭りでもしているかのようです。そして、「エリコ」という言葉を聞くと、エリコが滅ぼされたということよりも、城壁を何回もお神輿を担いだ祭司たちがぐるぐる回ったということが不思議に記憶に残るものです。エリコの記事で大事なのはここだと思います。神の箱には「汝殺すなかれ」「盗むなかれ」「両親を敬え」などの十戒が入っています。それで城壁の町を囲む。7日間。ここからは解釈になります。7はイスラエルでは完全数ですから、永遠とか無限大にという意味です。神の意志としてはエリコを神の言葉に包まれ、神の言葉に守られた民としたかった、ということの象徴として理解したいと思っています。もちろん聖書記者にはいろいろな人がいたでしょうから、神は神に反する者を聖絶するという見解で聖書を記述していった方もいるのでしょう。 本日の聖書の箇所が問題の箇所だということは神学者や聖書学者、信仰者や平和主義者の認めるところでしょう。私の意見は、聖書に聖絶せよ、と書いてあったとしても、殺人や略奪はいけないでしょう、ということです。 皆様の祝福を祈ります。