聖書 申命記25章1~17節
   マタイによる福音書19章11節から12節
説教 平和の共同体の心得
   「民族宗教から個人の信仰へ」

旧約聖書はユダヤ教の経典となっている書物です。イスラエル一民族のための経典と読むと分かりやすいと思います。
イスラエルの民が生き残るためのガイドブックということができると思います。
本日の箇所にはむち打ち、脱穀する牛の口籠、家名の存続、組み打ちの決り、正しい秤、アマレクを滅ぼす、これらのことはイスラエル民族が生き残りためには有効ということが理解されます。むち打ちは残酷なようですが、必要以上に打たれることを制限しているものです。脱穀する牛に口籠をつけてはいけないは動物の過剰労働を禁止したり、動物虐待を禁止するものと私は解釈します。家名の存続は夫婦に子供がいない場合、夫が死んだ場合、妻は夫の兄弟と結婚し、家の名前を残さないといけないという家制度を意味すると思われます。民族が生き続けるには家制度を保っていくことを強要してしかるべきでしょう。これも民族宗教ではあってしかるべき決りでありまししょう。組み打ちの決りは、二人の男が相争っているとき、一方の妻が近づき、夫が打たれるのを救おうとして、手を伸ばし、相手の急所をつかんだのなら、その手を切り落とさなければならい。憐れみをかけてはならないとあります。これは酷すぎると思いますが、組織維持にはこういう決まりも必要な場合も出てくると思われます。正しい秤も不正をなくすためのものだったらしいです。アマレクは残忍な民族の代表として示されているようで、イスラエルの民族存続にはアマレクが滅びるということが、裏を返せば弱く小さいイスラエルが生き残る道だったように考えたのだろうと思います。
しかし、新約聖書の今日の箇所は結婚しなくても幸いになれるということが書かれています。ここは共同体形成のための問題提起です。
結婚を否定しているわけではなく、結婚に縛られる問題からの解放を語っているのではないかと思います。共同体に縛られることはない。天の国のことを考えて恵みを受ける信仰が重要なので、結婚がそういうことを奪うならば、結婚しないこともあり得る。民族形成など共同体形成も何が何でもしなくちゃいけないことではない。ということをここでイエスは言っているように思います。

個人の信仰が重要であるかの如くの話のようです。
重要なのが個人の個人の信仰ということになるのでしょう。

みなさまの祝福を祈ります。