聖書申命記26章1~19節、マルコ福音書12章41~44節
説教 平和の共同体の心得   「信仰の告白とは?」

日本基督教団信仰告白

我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。
神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業(みわざ)を成就(じゃうじゅ)したまふ。
教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。
我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン。(1954年10月26日第8回教団総会制定)
(1967年7月6日第4回常議員会においてふりがな確定)

本日の聖書の箇所は「信仰の告白」というタイトルがついていますが、
「神は虐げるものを解放する」「われわれも神の御心に従い、虐げられている者を支える」というような内容です。随分違うような気がします。本日の新約聖書の献金の捧げものついてイエスが褒められたのは、生活費すべてを捧げたやもめの信仰でした。

私たちは命がけで貧しい人たちを助けようとしているのだろうか?
防衛は最大の福祉なりと軍事力や力や財力を獲得した余力として、貧しい人々を助ければいいという考え方なのではないでしょうか?
聖書の信仰はそういうことではないようです。
まず、はじめに、貧しい人や困っている人を助ける事、救済、救いから始まって、終わるということを告白しているように思います。

これらのことから、私たちは暮らしていくうえでどうあるべきかを考えていきましょう。まず、力や蓄えでしょうか?それとも、目の前の困っている人や貧しい人を助けることでしょうか?日本基督教団信仰告白を捧げることでしょうか? 
みなさまの祝福を祈ります。