聖書 申命記18章1~8節 旧約p309 マルコによる福音書2章1~12節 説教 平和の共同体の心得「サービス業の保障」 先進国になりますと、サービス業が多くの出現し、人々もサービス業に多くつくようになります。医療、教育、保健、福祉分野はその典型ですし、金融、行政、司法、政治もサービス業という範疇に入れられると思います。このサービス業のサービスですが、サービスというのは礼拝を意味します。サービスとは神への礼拝と同じことだということになると私は思います。 ビジネスとなるとビジー忙しいという言葉が語源になるそうですから、サービスとは異なります。ビジネスという言葉は仕事という言葉になっていますが、本来的には忙しくすることであって、サービス業には相応しくないことばのように思います。 しかし、近年、介護ビジネス、教育ビジネス、医療ビジネスというような言葉を聞くようになりました。そして、あまり違和感を感じなくなってしまっています。 ビジネスの本質は多忙やお金を儲けることです。 礼拝とは全く様相が異なります。 仕事を 神のために捧げるか、 忙しくしたり、金銭を得るためにするか、 では大違いです。 サービス業とビジネスは相いれない概念だと思います。 サービス業をするには余裕がないとできないと思います。 お金に仕えるのではなく、神と人に仕える、それのみを目的とするものでしょう。 本日の申命記にはレビ人や祭司の生活保障が書かれていますが、この方々は祭儀を司る方々です。この方々は、土地を所有していません。しかし、神に捧げものの一部を食べることができるということか記されています。祭儀とは礼拝を含みます。彼らは純粋なサービス業の方々だと思います。その方々は生活が保障されるというのです。 神を礼拝するとはどういうことなのか? イエスの本質とは何か?を問うことが礼拝を問うこと、礼拝と判断できることに、つながるのではないかと思います。もちろん神から与えられた十戒を守っていくということや十戒を含む真の意味での神の言葉を尊重していくことが、礼拝やサービス業の条件であるように思います。 本日の新約聖書のマルコによる福音書2章にはイエスが中風の人の罪が許され、病が癒されたことが書かれています。 このことから神に仕えるとは、まず、イエスがされたようにボランティアで人を助ける、罪を赦し、より元気に生きるようにするということなのではないでしょうか? 人がより元気に生きるようにする、これが、サービスであり、それに携われるようにサービスに携われる人々が暮らせるように保障すること、聖書はそういうことを勧めているように思われます。サービス業に従事する私にはありがたい言葉です。