申命記15章19節~23節
      マルコによる福音書11章15~19節 
    (2015年3月1日礼拝)
説教 平和の共同体の心得
  「真剣に生きるとは?」

最近、仙台で7月8・9日にある全国身体障害者施設協議会で事例発表をすることになりました。これまでの自分の実践の経験を話し、世に問う機会が与えられる恵みを感謝したいと思います。しかし、演題が45しか通らないので厳しい感じがしています。はなして通るか?こうなると自分の健康管理をしっかりするようになりますし、時間をきちっと管理して睡眠をとるようにしたり、優先順位を考えて無駄なことはしなくなったりします。聖書を読んだり、祈りも忘れないようにします。もちろん礼拝も行うことに熱心になります。儀式的なことを果たせばいいというものではありませんが、儀礼的なことにも面倒がらないでやるようになります。

今、儀礼的なことがたくさん書かれている申命記を読んでいますが、どうしてこうも儀礼的なのだろうと考えますと、イスラエルの民が真剣になって生きる道を模索していたからだではいでしょうか?かれらの生き方はとても生き生きしていたのではないのでしょうか。今日もよかった、とてもすっきり爽快爽やかな暮らしを送って行ったのではないでしょうか。それをいかにして実現するか、神の言葉に聞きしたがっていったときそれはなされたのではないでしょうか?だから彼は知っていたのでしょう。神の存在と神の言葉に従った時の心地よさを。

本日のマタイによる福音書では祈るべきところで金儲けや強盗をしていたことについてイエスは怒り徹底した回心を求めていきます。これはイエスが人間の本当の生き方の心地よさを知っていたからでしょう。彼らが天国にいるように幸いになるには、祈るところで祈ることが最もいいことだ。彼らが神殿で強盗のようなことをしていては彼らの人生が台無しだ、と思ったのでしょう。

人はパンだけで生きるにあらず、神から出る一つ一つの言葉で生きる。とありますように、神の言葉は私たちを本当の意味で生き生きと生かしてくれるもので、それによって真剣に生きることができるということも言えそうです。私たちに与えられている神の言葉とは何か?よく聞いていきたいものです。