申命記7章1~26節、マタイによる福音書13章24から30節 平和の共同体の心得「信頼すべき神」 本日の聖書の箇所は排他的な箇所が含まれている箇所です。7つの民を滅ぼせというところですが、読んでみますと、「イスラエルの民に勝るヘト人、ギルガル人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわせ、あなたが彼らを撃つときには、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。」とあります。これらの民族は本日の聖書の箇所では「滅ぼし尽くさなければならない」など書かれていますが、出エジプト記3章8節には「カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ導き上る」とだけ書いてあるだけで、むしろ、一緒に住むようになることが書かれています。旧約聖書を読んでみてきて分かりますように、決して、他宗教を滅ぼしてきているわけではありません。むしろ、創世記では他の神々を創造したとも読めなくもありません。そして、申命記が書かれた時代はバビロン捕囚前後と言われており、編集者はヘト人、ギルガル人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人が滅亡していたことを知っていたらしいのです。イスラエルの民は彼らより、数も力もなかった(申命記7章7節)のでお世話にならざるを得なかったのだと思います。しかし、彼らは十戒を守るようなこととは異なった生活様式だったらしいです。おそらく奢侈贅沢だったのでしょう。民族の滅びを生じる結果をこの時の編集者は知っていて、それ故、彼らを滅ぼし尽くすという表現を用いたのかもしれません。ここでいいたいことは他の民を滅ぼすことではなく、生き続けるには十戒を守ったり、神の言葉に従うことが大事だということだと思います。信頼すべきは神だということを伝えているのだと思います。本日の新約聖書のマタイによる福音書には、天の国の譬えとして、麦畑に毒麦が混在した場合、毒麦を取り除くかどうか考えたときに、取り除かず、そのままにしておき、最後の刈り入れの時に主人が弁別するようなことが書かれています。ですから、悪いことをするものをもそうでないよい麦と共存させる神ですから、他の民族を排除するのは神以外できないのじゃないかと思うわけです。したがって、ここの滅ぼし尽くすということは、聖書編集者の創作ということになると思います。 信頼すべき神があるということ、聖書は私達に、そのことを知らせてくださっていると思うのです。 みなさまの祝福を祈ります。