聖書 申命記3章1節~29節
    マルコによる福音書15章33~41節
説教 平和の共同体の心得「神の意図が分からない」

 今日の聖書の箇所からは、私は正直に言いまして、神様に不服申し立てをいたします。
 まず、モーセについてですが、モーセは80歳から約120歳まで神様の一方的な導きにより、本人が再三いやだというにも関わらず、イスラエルの出エジプトのリーダーとして選ばれ、そして、イスラエルの民の約束の地のカナンへ神と民の間の調整役としても担わされてきました。モーセは今神様が約束されたカナンの地にまさに入れそうになったときに願います。「どうか、カナンに行かせ、ヨルダン川の向こう側のよい土地、美しい山、また、レバノン山をみせてください」と神様に祈ります。しかし、神様はそれを断り、行かせないのです。その時の言葉、「もうよい。このことを二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡っていけないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。ヨシュアを任務につけ、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう」
これではあまりにもモーセは無念ではないでしょうか?全治全能の神ならあと1年くらいモーセを生かせることもできたと思います。注解書をみると神に憐れみがないのではない、モーセの責任がそれだけ重かったことを言うもの。後継者ヨシュアを与え、神はモーセに報いている」ということです(新共同訳旧約聖書注解Ⅰp303)。
 次に本日の新約聖書はイエスが十字架にかれられたときのことが書かれています。イエスは叫びました。「わが神、わが神、なぜ、私をお見捨てになったのですか?」。十字架につけるなんてどうして神様がなさるんでしょうか?こういう疑問がでてきます。
 しかし、一つ一つが救い主の指示であるならば、それは、不条理と思いながらも従うべきこともあることなのでしょうか?そうだとすると日常生活で神の指示とは何か、ということになります。それをじっくり考えつつ暮らしていくことが平和な暮らしに繋がるのかもしれませんが、分からない場合、疑問は残ってしまいますね。

 聖書を読んでいきますとこのように疑問を抱いてしまうことが多くなってきました。こういう時には分かるまで待つのがよろしいかと思っています。疑問をもつ私が悪い、ただ、盲目的に信ぜよ、という立場の人もいらっしゃるかと思います。しかし、分からないことは、分からないと正直に告白することの方が大切だと思います。その方が平和に暮らせる場合もあるんじゃないかと思います。

みなさまの祝福を祈ります。