聖書 民数記33章50節~34章15節,マタイによる福音書6章25~34節
題 救いは全人類の救いを説く様々な宗教の信仰によって

今日の民数記はカナンの地にイスラエルの民が入る直前の話です。神がカナンの住民を追い払い、異教の祭壇をすべて壊せと話します。「土地の住民は目に突きさあるとげ、わき腹に刺さる茨となって、あなたたちが住む土地であなたたちを悩ますだろう」と話します。実際はカナンの住民と平和的に混在するような形で暮らしていったらしいのですが、なぜ、こんな排他的な事を書いたのでしょうか?この聖書編集者は自分のカナンの地の祖国を失ったバビロニア捕囚時にこの箇所を書いたらしいのです。当時、聖書編集者らが一緒に暮らしているのはバビロニア人、異教の民で、支配者なのです。聖書編集者たちはイスラエルの民に、束縛から解放され、自由になるという希望を提供する必要がありました。そこで、出エジプトという物語を利用し、カナンの地にはイスラエルの民と同思想、同宗教でなければいけないということを神の名を借りて語らせたのでしょう。そうすることで弱る信仰をも強めることができたのだと思います。旧約聖書が書かれた理由はヤハウエに対する信仰強化しかありませんでした。ユダヤ教は伝道しませんでしたから。自分たちは信仰共同体として選ばれたと民との自覚があったのでした。基本的には限られた土地とそこに住む民族の信仰で世界は救われるという思想だったと思われています。

信仰は神から与えられるもので、一人一人が異なり、それが全人類の救いとなる、というものだと私は思います。宗教は全人類の無条件の救いを説くものだと私は思っています。条件付の救いを説くものは宗教ではないと思います。それは人間の組織です。宗教は組織ではありません。無条件の救いを説くものだと思います。だから、重要なのは自分が信仰を失わないことだと思うのです。自分の信仰が全人類の人を救う、なんということでしょう。私の如くの人間の信仰でそんなことが起こるとは。しかし、神の選びとはそういう奇跡を体験できるという希望を与えらえているものだと思います。

今、イスラム国の人々、キリスト教の国の人々は今戦争状態にあります。イスラム教もキリスト教も経典である旧約聖書を一緒に勉強していきたいものです。そこに神による全人類の救いが秘められていることを発見できるのですから。

本日のマタイによる福音書には、神の国と神の義をまず求めなさい、そうすれば食ベ物、着物など必要なものはすべて与えられるというようなことが書かれています。この神は、キリスト教の神だけを言うのでしょうか?私は全人類の救いを説くすべての宗教の神を指していると思っています。自分の宗教の信仰を極めていくことで、私たち人類は救いの暮らしをしていくことができるのだと思います。つまり、平和を実現でき、苦しみや抑圧からの解放がもたらされる自由な状態になってくのだと思います。

みなさまの祝福を祈ります。