聖書 民数記33章1~42節、ルカによる福音書12章22~34節
説教 平和の共同体の心得「神の国を与える主」

ユートピア(理想郷)は過去に人間が作ろうとして失敗してきたという話を小学校6年生の時、聞いたことがあります。ネットで調べてみても理想郷を求めて、失敗に終わった10のユートピア都市計画とかありまして、ユートピアはこの世に実現したことがないようです。
ところが、聖書にはこのユートピアと思える神の国が与えられるということが、書かれています。旧約聖書には神の国とはエデンの園とかカナンの地とかが神の国なのかなと思える節もありますが、いずれも、人の罪の為にエデンの園からは人が追放され、カナンの地ではやはり罪の為に人間の問題でユートピアにはなり得ませんでした。今のパレスチナガザ地区などを見ればお分かりの通り、殺戮の絶えない地となり果ててしまっています。
 
 私にはいろいろ欠点があり、弱さがあり、また、罪を犯し、平和や平等、愛することを求めることをせず、心配したり、諦めたりするものです。どうせ人間なんて罪を犯す酷い存在だ、虐待や残虐さがあるのが当たり前、平和でなくて当然だと思うこともしばしばです。日本では原発事故後の問題が生じ、人間の英知の乏しさを感じずにいられませんし、「イスラム国」の台頭で、平和の秩序が乱れてしまっているようにも思います。こういう状況の中で希望が持てるのか?、神の国、平和の国が実現するんだという信念、信仰、そういうことを信じて暮らしているだろうか?と思ってしまいます。
 
 しかし、聖書は、それでも、希望の書です。神の国を与えるというのです。新約聖書ルカによる福音書は野の烏、野の花が自然の中で生きているのを示し、人にも自然の如く神の国は与えられるという宣言をイエスはなされます。その条件は「求める」ということです。 理想郷やユートピアと思われる神の国を求めていくところに、結果はどうあろうと信じ続けていくところに神の国というものは与えられているんじゃないのでしょうか?今日の旧約聖書に出てくるモーセの兄アロンはカナンの地を目の前にして123歳で死んでしまったとあります。アロンは無念だったでしょうか?いえ、彼はエジプトから出て40年いろいろな事件に巻き込まれながら、自分も罪を犯しながら、カナンの地に向かってやってきました。乳と蜜の流れるカナンの地。ここに行くんだという希望があった満ち足りた40年だったと思います。

 私たちは神の国が与えられています。そこには希望があるんだと思います。そして、神の国とはほらここにあるというような目に見える国ではないようです。
希望をもって生きていける場、そこがどこであろうと、神の国であると思います。平和が実現できる、愛し合うことができる、そう信じることができるところならどこでも神の国なのでしょう。

みなさんの祝福を祈ります。