民数記26章1~65節 マルコによる福音書5章21~43節 説教:平和の共同体の心得「絶体絶命と思っても」 イスラエルの民はエジプトからカナンの地へ向かって旅をしました。イスラエルの民は軍事力をもってカナンの地へ侵入していきます。しかし、エジプトから出発した、20歳以上の兵役に就くことのできる人で、実際カナンの地へ入れた人は立った2人だけだったと本日の民数記は語っています。60万3千500人から2人になりました。この数は絶望的な数ではありませんか?40年はたっているとしても20代の人だって10万以上はいたはずです。その人たちが40年たてば60代。そのうち、99.999%が死んでしまうというのは異常だと思います。こういうデータをみると民族滅亡と思えてもおかしくありません。しかし、このときカナンの地に入れる20歳以上の者で兵役に就くことができる人は60万1千730人と聖書に記載されており、結構います。この方々はエジプトを出発したとき数えられた方々のお子さんやお孫さんで、60歳以下となります。絶体絶命と思っていても意外なところから神様は約束を全うされるように受け取ることができます。 マルコによる福音書には、死んだと思ったユダヤ教の会堂長ヤイロという人の娘がイエスの「タリタ、クム(少女よ、あなたに言う、起きなさい)」という言葉の後に立って歩き出したり、医者に全財産を費やしても役に立たず、ますます悪くなり、出血が止まらない女がイエスの服に触れたら癒されたりしたことが記されています。 これらのことから、私たちはもうダメだ、絶体絶命だと思えるときであっても、否、そういうときにこそ、意外な方法で、恵みが与えられていくといことを覚える者です。そういう神が私たちに働いています。その神に気づき、その恵みに気づくこと、それが私たちの暮らしや人生の幸いなのでしょう。 皆様の祝福を祈ります。