民数記11章1節~34節
マルコによる福音書4章10節~12節
説教 平和の共同体の心得「神への不満」 

エジプトの重労働から解放されたイスラエルの民でしたが、シナイ半島からカナンの地を目指す途中で、導いてくれた神に不満を言い出しました。「誰か肉を食べさせてくれない者ものか?エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」と言い出しました。神はマナを日曜を除き毎日のように与えていました(出エジプト16章)。
飽きたのでしょうか、食べ物のことで不平、不満を言い出します。2年も同じものでしたからね。しかし、神様はウズラの肉を与えてくれましたが、それを食べた民は疫病になって多くは死んだのだと思われます。その場を「欲望の墓」と呼ばれるようになったといいます。さらに、兄アロンと姉のミリアムがモーセの妻がクシュ人だということを非難したとあり、その罪をミリアムが神様から指摘さえ、皮膚病にされてしまったとあります。モーセはモーセで神に周りから苦言が生じ死にたいくらいだ、死なせてくれ、とさえ、語ります。

本日のマルコによる福音書には、イエスがなぜ神の国について譬えで話すのかということが書かれています。なぜかというと人間は神を見ても、その言葉を聞いても理解できないから、神に立ち返ることもなく、赦しっていうのがあることすら知らないから、ということらしいです。

これら聖書から考えますに、人間とは神の言いつけに従えない、神の言葉も理解できない、神に立ち返ることもできない、哀れな存在だっていうことがわかります。しかし、そういう人間と共に善なるもの正しいことを示し続けてくれる、神がいることを聖書から知り得ることもできます。

現在の生活を見回してみますと、理想通りに行かないこと等も多くみられます。良心に反するような行動も問題だと思います。また、当然やるべきことをやらない怠惰なことさえ行っているのが私自身でもあり、多く悩み、あるときには苦しみむ状態にもあります。

こういうとき、聖書に、人間が神の言いつけにも従えず、聞いても分からず屋だって言うことが書いているのを思い出すと、ああ、人間ってそういう罪人なのだ、と少し安心するのです。そういう罪人と共にイエスもいて下さる、イエスが霊的に関わってくださり、何かアドバイスを与えてくれることさえ、期待することができます。そして、いやいやこのままではいけない、少しずつでもよりよくしていこう(「平和」「愛」など神様の言うことに従うことがより良く生きることだと私は思います)と思え、行っていくことができるようになると思っています。

皆様の祝福を祈ります。