聖書 民数記 1章1―54節(朗読1-3節) エフェソの信徒への手紙2章14-22節 説教 平和の共同体の心得「キリストはわたしたちの平和」 本日から旧約聖書の民数記に入ります。民数記にはイスラエルの民がエジプトを出た翌年からカナンの地、(地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯)に入るまでの39年が記されています。シナイ山で十戒を与えれて近くの荒れ野にいたころの話が本日の民数記1章です。主はモーセに、イスラエルの民の人口調査を行い、兵役に就くことのできる20歳以上の者を部隊に組んで登録しなさい、と告げます。モーセはそれを行い、登録者は60万3550名でした。ここで行ったことは軍隊の準備です。神様はカナンの地に入るために軍事力を用いるというのでしょうか?ここは疑問に思う事です。 本日の新約聖書のエフェソの信徒への手紙には、キリストは平和を実現する、とも書かれています。また、十戒にも殺してはいけないという戒めもあります。軍隊は神の意志に添わないと思いますが、ここで神様が軍隊を作れと命じているとはどういうことでしょうか?矛盾を感じる訳です。聖戦という言葉がありますが、神様が行えと命じた戦争という事で、それは、罪ではない、正しい、聖なる戦争という考え方なのでしょう。しかし、十戒に反します。 このような矛盾は聖書が多くの編集者(多数の言伝えを編集した人)によって作られたという書物であるということから考えると私なりに納得できる説明が可能です。神様は人間に十戒や平和を守ることを求めますが、聖書を編集する人が、自分の民族の戦争の歴史を振り返ったとき、大義を与えたいと思い、神が軍隊を準備するように命じた、とか、戦争をするように命じたという言伝えを採用したという考え方です。言伝えの中には人の都合に合わせて神を利用したようなものもあったのかもしれません。 とにかく、神は殺してはならいという戒めを与え、平和を実現する神であると私は聖書から読み取ります。 実際、聖書をもとに戦争を肯定する人もいますが、少なくとも聖書は十戒から考えて戦争を肯定するものではありません。この点、聖書の読み方に注意をしなければいけませんね。 軍隊を持ったイスラエルの民ですが、この時の人口調査をされた人でカナンの地に入れた人はたった2名だったということです。モーセもカナンに入ることができませんでした。このことから「軍隊では生き残れない」と受け止めています。生き残るには殺さず、平和を実現することだと改めて思っています。皆様の祝福を祈ります。