レビ記25章1~55節
ルカ4章16~19節
平和の共同体の心得 「主の奴隷になる」
 
レビ記25章では、土地に7年に一度休ませる安息の年を与えることと50年に1回、ヨベルの年と言って、売った土地や家を返してもらえるような制度を神様は示しました。ヨベルの年には身を売った者も自由にされるということが示されています。これはいわば貧しい人々の経済的救いの制度について書かれています。神様がそのような制度を示した理由として、「イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出されたものだからである。」ということでした。わたしたちは神様の奴隷であると聖書は語ります。奴隷になるのはいやなものです。しかし、神様は、人間は神様の奴隷だと断言します。そして、上のような制度を作り、人間が人間を奴隷にしないようにしたのだと思います。本日のルカによる福音書4章18、19節には、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とあります。貧しさや束縛、迫害を受けている人たちからの解放がイエスという方のこの世に与えられた使命だったようです。イエスの奴隷とは、「捕らわれている人に解放を」、「見えない人に視力の回復を」、「迫害を受けている人たちの解放」、そういう事柄を行っていくように歩む人たちのことだと思います。願わくば私もこうなりたいものです。


レビ記25章1~55節
ルカ4章16~19節
主の恵みの年を告げる
 

 本日は、ルカによる福音書第4章14節以下を共に読む新約聖書の箇所として選びました。ここには、主イエス・キリストが、お育ちになったナザレの会堂でお語りになった言葉が記されています。主イエスはこう言われました。18、19節です。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にする「主の恵みの年」、それはヨベルの年のことです。ヨベルの年はしかし、イスラエルの民の実際の歴史において行われたことは殆どなかったようです。つまりこの掟は神様の民として歩むイスラエルの理想の姿を描いたものであって、実際の歴史においては実現しなかった、青写真に終わってしまったのです。しかし主イエス・キリストは21節で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになりました。主の恵みの年、解放と自由の年、ヨベルの年が、主イエスがこの世に来られたことによって成就、実現したのです。つまり、人々が主なる神様のもの、神様の奴隷として生きるところにこそ与えられる解放、自由が主イエスによって実現したのです。それは、この時点で既に実現したということではなくて、十字架の死と復活に至る主イエスのご生涯の全体によって実現する救いとはこのような解放と自由であるということです。主イエスは、父なる神様が、私たちの本当の主人、所有者として、私たちに対する支配を確立するためにお遣わしになった神の独り子です。主イエスはどのようにしてその神様のご支配を確立して下さったのでしょうか。それは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによってでした。そのようにして私たちの罪を赦し、神様の恵み、祝福の下で生きる神の子としての新しい歩みを私たちに与えるために、主イエスは十字架にかかって死に、そして復活して下さったのです。この主イエス・キリストによって私たちは、主なる神様が既に自分の全ての罪を赦して下さり、自分を神様のもの、神様の奴隷として下さっていることを知らされるのです。神様の奴隷とされて生きることは、人間の奴隷として過酷に踏みにじられるような生活とは全く違うものです。それは神様の愛によって養われ、支えられ、守られていく生活です。神様の祝福に感謝し、希望を持って生きることができる生活です。そしてそこには、金銭を初めとする人間の様々な力による支配、この世的価値基準や世間の常識、人の目や評判、あるいは自分の見栄や誇り、その裏返しとしての劣等感やひがみなどからの解放があるのです。主イエス・キリストによってこそ、安息の年、ヨベルの年が私たちにも告げ知らされているのです。