レビ記21章16~27節 ルカ14章7~14節 共に食べることを通して 生き辛さ。これはどなたでもお持ちのことではないのでしょうか?身体が不自由になればその分だけ生き辛さが増すんですね。生き辛さを苦難と言ったり、試練と言ったり、十字架と言ったり、生き辛さがテーマとなっており、この生き辛さからの解放がテーマになっているのではないでしょうか? べてるの家の向谷地さんという方は、イエスが敢えて十字架に向かう生き方をしたことに興味を持ち、苦難に意味があるという事を考えているようです。精神障碍者と共に暮らすような活動を続け、精神障碍者を良く理解していき、の会社を立ち上げたり、精神障碍者が地域で暮らせるような活動を展開しているようです。そのポイントとなるのが生き辛さをよく理解していくことだったようです。 レビ記21章の17節には、祭司業のモーセとイスラエルの民に対し、「障害のある者は世々にわたって、神に食物を捧げる務めをしてはならない。」とは言っています。ここをみると、あれ障がい者は祭司職につけないのかと思ってしまいます。しかし、22節には、「しかし、神の食物として捧げられたものは、神聖なる物も聖なる捧げ物も食べることができる。」となり、祭司職全部をしてはいけないと言っているわけではないようです。 また、障がいの種類を見ますと、目や手足の不自由な者、鼻に欠陥がある者、手足の不釣り合いの者、手足の折れた者、背中にこぶのある者、目が弱く欠陥がある者、できものや疥癬のある者、睾丸のつぶれた者などとあります。聴覚障がい、言語障がいは含まれていません。食物を捧げると言うのはかなりの体力がいります。身体や目のいい人ではないと手際よくできないと思います。「宥めの香り」の判断も必要でしょうから、鼻も大丈夫な人でなかったらダメだったのでしょう。睾丸がつぶれたっていうのは、どうしてか?そういう人って力がでなくなっているのかもしれませんね?女性化している男性のことを言っているのでしょうか?よくわかりませんが、ただ、この箇所からの解釈では、祭司は適材適所で行うべきだというようなことを語ってもいるようにも受け取ることができますね。 これは実に親切な考え方だと思います。 ルカ福音書の14章7節~14節では、婚宴や食事会を催す際に、上席に座ろうとする客を見て、皮肉を言っているようです。「彼らは自分が偉く思われたいと思って、婚宴や食事会に来るではないか?偉く思われたいんだったら、最初は末席に座りなよ。そうしたら、主催者はどうぞ、どうぞと上座に案内してもらえるから、偉さ度アップするだろう。本来なら婚宴を祝ったり、食事会を楽しむべきではないか。本当につまらないことをしている。あと、主催者に言っておくけど、どうせ食事会するなら、義理すべでやるんじゃなくて、やって楽しい食事会、食事会をしたいから、しましょう、みたいな感じですればいいんだよ。その点、親戚とか、金持ちとか、御礼しなくちゃなんて思うから、せっかくの食事会が楽しめなくなるよね。みんなで一緒に食べる、これこそ、至福な時だよ。」こういうことをイエスは語っているのだと思います。 レビ記もルカ福音書も結局、神と共に聖なる食事をみんなでする、そのことを目的に食物を捧げる人も、それを神に取り次ぐ祭司も、健常な人も。障害のある人も、みんなで最後には共に食事に預かろう、共に満腹感に浸る様に暮していこう、そういうメッセージを伝えているように受け取りました。