レビ記20章1-27節(朗読1-5節)、ヨハネによる福音書8章1-11節 「あなたを罪に定めない」 物事がうまくいきますようにとよく私は祈りますが、これは一種のご利益宗教ですよね。 3月15日にも気仙沼市の保健師の企画で、講演会をしました。「コミュニケーション支援」 についてですが、講師は東北文化学園大学から、教授を読んだのですが、心配なのが人の入りなんですね。人が集まらないのが、怖い。去年のクリスマス会では気仙沼集会集まったのが、私入れて3人ですからね。あのときの無念が亡霊のように心をよぎるんですね。人が集まらないんじゃないか・・・祈って、声がけをとにかくやっていきました。すると、30人を超える方々が集まって下さり、なんとか、難関、私にとっての難関を突破することができたのでした。いや~うれしくてしばらく放心状態でした。神様が守ってくれた。という感じなんですけど、これだとやっぱりご利益宗教ですよね。正直いいますと私の信仰はこの域を出ないですね。ご利益宗教的な信仰だということです。苦難から救われたい、苦難から逃れたい、元気でいたい、死にたくない、幸せになりたい、そういうために神に祈るのですね。自分の幸せの為に神を利用しているのです。この信仰はまずいんじゃないでしょうか。神の命令を守るのも自分の幸福のためです。愛し合いなさいという神の命令に私は、「情けは人の為ならず」という戦略を使っています。こういう信仰っていいのでしょうかね?しかし、冷静に自分の信仰を見つめるとき、なんとも、恥ずかしい信仰なのだと思ってしまいます。私の信仰というのはある意味、自己中心性へのブレーキなのではないかと思っています。 レビ記の本日の箇所には「死刑に関する規定」が述べられています。1節から5節にモレク神という神があって、その神への信仰を固く禁止していたようです。父母を呪う罪、近親相姦など性における罪、占いの罪などが上げられています。しにあたる罪として描かれています。 恐らく、これが書かれたのは、モレク神を信仰していて、新生児を捧げるとんでもない風習だったようです。ユダヤ教はそのような風習に染まって生きる道を選びませんでした。両親を敬い、姦淫や性的に不道徳な関係は選ばず、婚姻によって性的な関係が赦されるという極めて常識的な、神からの命令されている道を選んでいきました。 さて、新約聖書のヨハネによる福音書には、律法学者やファリサイ派(ユダヤ教の一派で律法厳守を重んじる)の人々が姦通の現場で捕えられた女を立たせてイエスに質問する場面が描かれています。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。イエスはこの質問に対し、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と回答します。すると、周囲の人たちは一人ひとり去っていき、最後に娘とイエスが残りました。そして、イエスはその女に言います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう、罪を犯してはならい」と。 レビ記の今日の分だけのことでは、姦通の罪は死刑です。しかし、イエスはそれを罪には定めないと言います。そして、「これからはもう罪を犯さないように」と語ります。私たちにとって重要なのは罪のために死ぬことではなく、罪を犯さないように生きることなのでないか、とイエスは提言しているのではないのでしょうか?レビ記においても贖罪の捧物をすれば罪を赦されて歩めるということは書かれています。従って、本日の聖書のメッセージから神様は私たちを罪人のままにはしておかず、罪を赦してくださり、さらに、罪を犯さなようにと、わたしたちの生への方向性をも与えてうださる方であることを知ることができます。レビ記をみれば規則がいっぱいです。新約聖書では「愛し合いなさい」という神様の命令が有名です。これら神様からの守るべき決まりが与えられています。これらを守っていけば罪を犯さない暮らしになるのでしょう。「あなたを罪に定めない」とイエスは言いました。ここが、イエスの言ったこと本質ではないでしょうか。このヨハネによる福音書本日の個所は、鍵かっこがありまして、2世紀とか、あとから、誰かが、いい伝えを、「これからは罪を犯さないように」という言葉を付け加えて、挿入したのではないかと言われています。そして、奇しくも、イエスの十字架でその罪が赦されました(これはモスク神に自分の子どもを捧げる悪い習慣とも関係しているのかもしれませんね?)。このような恵みの中で律法や常識的な決まりなどの意味を考え、自分になりに自分を律していきたいと思っています。皆様の祝福を祈ります 。