レビ記10章1~20節 ローマの信徒への手紙1章29~32節 
説教 平和の共同体の心得『神は滅ぼさない』

(レビ記は出エジプトしたイスラエルの民が役年後シナイ山の麓についてから1か月間のことが記されています。祭司の規定など詳細が記されていますが、19章18節には「復讐してはならない。隣人を自分のように愛せよ」というような、イエスが律法で一番重要な掟といったすべての人に共通する律法も含まれている文書です。)

本日のレビ記には、2人の祭司の焼き尽くす炉の火の入れ方が悪かったらしく、彼らは主の御前から火が出て火傷をして死んでしまったことが記されています。それを聖書は規定違反した祭司に下った神の罰として描いています。このような場面は神のいう事を聞かないと死んでします、という観念を植え込まれてしまいます。

儀式の仕方を間違えただけで命を奪う神なのでしょうか?オリンピックの聖火の火を別の火としても、注意はされるかもしれませんが、死刑にはならないでしょう。私の信じている神は、人は殺しません。それに、レビ記10章には、アロンも含め彼の別の息子の祭司らも、手続きが違ったのですが、彼らは命を奪われません。おそらく、亡くなったのは事故のためだったと思います。それについてモーセがあれやこれやと過ちを指摘します。 だから、天罰があたったのだとアロンに言います。言われたアロンは悲しく、悔しかったでしょう。さらに、モーセはアロンや残された子どもたちに言いつけます。「髪をほどいたり、衣服を裂いたりするな。そうしないと死ぬぞ。共同体全体に神の怒りが及ぶ」とか「臨在の幕屋から出るな」とも言います。主から今度は「臨在の幕屋に入るときは強い酒を飲むな。死を招かいためだ」など出てきます。さらに「あなたがたのなすべきことは、聖と俗、清いものと穢れたものを区別すること、また、モーセを通じて主が命じられたすべての掟を守るようイスラエルの人々に教えることである。」と主は告げられます。ならば、儀式の仕方の誤りで殺害はおかしいと思います。モーセも主も、いろいろ話しますが、「あなたがたが死なないように」ということを再三語りながら、話しているからです。
息子2人を亡くした父親に言い過ぎのように思います。「お悔やみ申し上げます」くらい言ったらよいのに、と思ってしまいます。

聖書の編集者のグループには、神に従うことに忠実な思想家がいたようです。バビロン捕囚時には、特に祖国を失った時ですから、レビ記のこの箇所もバビロニア捕囚時か、それ以後に、いろいろな伝承を編集されたようです。自分たちが祖国を失い、苦しい生活をさせられた原因について、よくよく考えてみると、神の命令を守らなかったからだという考え方をしたのだと思います。ここでは、神の命令、言葉に従うことを守っていくことの重要性を意図した文書とみた方がよさそうです。

ここは火傷で死んでしまった祭司がいるとだけおさえておいた方がいいと思います。
それによって、イスラエルの民に大きな影響を与え、死に至らないように、イスラエルの民たちは死にいたらない生活様式について、あれこれ考え行動していったとも考えられます。

16章では、アロンの2人の息子の死を機に、贖罪日(7月10日)は苦行をする最も厳かな安息日なそうで、イスラエルのすべての罪責が主の前に清められるという日が決まっていくのです。それだけ、2人を悼んだと思います。私はここから、神にとってもアロンの息子の2人の死は残念だったことだったという神の気持ちが表されていると思います(こんなこと言っていいかわかりませんが)

残されたアロンと別の息子2人はこの日、モーセから「食べなさい」と言われた贖罪の捧げ物(レビ記:19で定められている)を食べなかったのです。モーセはまた「なぜ食べなかったのか」、と責めたてます。アロンはここで言います。「確かにあの者たちは今日贖罪の捧げ物と焼き尽くす捧げ物を主の前に捧げました。しかし、わたしにこのようなことが起きてしまいました。わたしが今日、贖罪の捧げ物を食べたとしたら、果たして主に喜ばれたでしょうか?」と語ります。アロンの心境は、次のようだったのではないかと思います。自分の息子が2人死んでしまった日に贖罪の捧げ物で食事を取れというのか。私たちはこれまで祭司として勤めてきた。特別清められた存在でなければ、神の言葉は語られない。そういう仕事を任せられている。しかし、息子が亡くなった今、主に対して、なぜだ!と問いたくなる。疑いさえもつ。私は嘆きたい。(旧約聖書学者月本昭男の話では現代ユダヤ人はナチスの虐殺の経験からか無神論者が多いとのこと。アロンもここで地が出たのではないか。アロンはシナイ山の麓で、民衆から要求されて金の子牛を作って拝み始めた人。人間の本性には、神を信じていないこと、頼らないこと、神の言葉に従わないことがあるように私は思う。この本性は間違いと悟ったのが信仰者であり、イエスを十字架につけたのは間違いだったと気づくのがキリスト者であると思う)。こういう風にしてさえ、アロンは生きているのですから、おそらく、アロンの息子は主が殺したのではなくて、祭司の仕事中に火傷で亡くなったのだと思います。

本日のローマ信徒への手紙には悪徳表(あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ちた状態、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念、陰口、そしり、憎しみ、侮り、高慢、大言はき、悪事をたくらむこと、親に逆らうこと、無知、不誠実、無情、無慈悲)が死に値すると述べられていますが、少なくともアロンの息子2人は、神様のために奉仕しようという気持ちはあったのだと思います。これによって死に直面した人だと聖書は語っていません。彼らの死は事故だったのでしょう。神は滅ぼさない、生かす神です。上記の悪徳表があることで私たちは自分の行動を調整していくのではないでしょうか。人を殺害したり死に追いやるのは人と自然災害、病気や加齢による機能低下だけだと私は思います。神はそういう現実の中でも、私たちを生かそうとし、私たちの人生を有意義なものとし、感謝に満ちた暮らしにさせように思っていてくださるように思います。その神に頼り、祈り、導かれていきたいものです。

皆様の祝福を祈ります。