聖書  レビ記第9章1―24節(朗読1-4節)
    ペトロの手紙一第2章9―10節 
説教 平和の共同体の心得「全ての人が祭司」

レビ記は私毎ですが、あまり読んでいない箇所です(牧師失格)。ですから、このレビ記を読んでいく中で、私自身勉強していくことにしました。手元にある注解書によると「レビ」は「レビ人」の「レビ」で、これは祭司のもとにあって、幕屋に仕える「レビ人」のことのそうです。祭司の部下というところでしょうか。しかし、ここのレビ記は「レビ人」に関する記録が書かれているわけではないそうです。実際「レビ人」という言葉は25章32-34節以外には出てこないとのこと。レビ記の内容は祭司及び信徒が幕屋において主にいかに犠牲を捧げるか、聖なる神の御前にいかに身を清く保つか、また、神の聖なる民としていかに行動すべきかについての律法集。従ってこの書は、イスラエルの民全体のための書ですが、中でも民を指導し、教育する立場にある祭司のための手引きと説明されているとのことです。(日本基督教団出版局 新共同訳 旧約聖書注解Ⅰp201参照)

さて、レビ記は一見、細かく具体的な規定だけが並び、つまらないように思いますが、レビ記の19章18節には、イエスが「律法で一番大切なのは、自分を愛するように隣人を愛することだ」と言った箇所も入っています。レビ記の規定は神から与えられた規定であることを考えまきすと、私たちがなすべき事柄でもあると思われます。

本日のレビ記は9章なのですが、1章から8章には、神からモーセが告げられたことが書かれています。幕屋で捧げる捧げ物についてとその執行の方法と執行者のアロンとアロンの子らの祭司の任職式についてのお告げです。任職式については8章で執行されたことが記されてありました。
さて、9章には、祭司アロンを通して捧げ物が捧げ始められたことが記されています。そして、それは、8日目とあります。8日目というのは7日の週の終わりの次の日、ということで、イスラエルでは、新しいことを開始する特別な日として設定されていたようです。
祭司が捧げ物を捧げることが新しく始まったのです。
何が新しいかと言いますと「贖罪の捧げ物」なのではないかと思います。これはアロン自身の贖罪の捧げ物と民の贖罪の捧げ物です。贖罪の捧げ物、これがあるとどうなるか。罪を償うことができるのです。おそらく十戒や律法を破ったとしても捧げ物を動物で捧げることによって許されるのです。これは、罪深い人間にとっては実生活上、救いだったと思います。それがここで行われていったことが示されています。出エジプトの時代にすでにイスラエルでは律法によって律法から解き放たれる、罪の赦しの規定もあったということです!これは驚くべきことです。それが、祭司職の初めの仕事として行われたということは、いったい、どういうことなのでしょうか。罪を取り除いた状態でスタートするということを意味してるのだと思います。すでにモーセたちがシナイ山にいたころ紀元前1200,1300年ころには罪の赦しの方法を民は神から律法の規定を行使する初めから得ていたということになると思われます。この祭司職がしっかり働いていたとするなら、イスラエルの民は罪赦された自由で喜びに満ちた暮らしを実現できていたのかもしれません。

さて、本日の新約の聖書の箇所は、ペテロの手紙第Ⅰですが、冒頭に、ポントス、ガラテア、カッパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしていた人々へとあり、この方々は、イエスを救い主とする信仰者であったでしょうが、かなり、異教徒的な雰囲気の暮らしの中にいた方々と思われます。
驚くべきことに、それらの方々に向かって、あなた方は、選ばれた民、主の系統をひく祭司、聖なる国民、神のものとなった民であると語るのです。この方がたはイエスの信仰者でありましょう。そういう方々を祭司と呼んでいるのです。これはどういうことでしょうか?

祭司とは、罪あるものの贖罪の捧げ物を捧げる役割の人でした。贖罪の捧げ物を捧げること、これを礼拝といってもいいと思います。一方でキリスト者というのは、イエスの十字架によって、罪赦された人です。その信仰者は祭司であると、本日のペテロ第一の手紙は言うのです。そして、その祭司の仕事は、「それはあなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためです」(2章9節)と語っています。イエスの十字架の業を広く伝えなさい。ということを語っているのです。旧約の場合の神の業とはエジプトの重労働からの解放です。祭司とは贖罪の捧げ物を捧げることができる方を言います。この祭司の方々とは、割と、食うに困らない、余裕のある方々なのではないでしょうか?暮らしに追われている方々の分まで助けてあげられる方々、こういう方々が祭司であり、暮らしに追われている方々を、余裕を持って暮らしていける祭司にしていきなさい、と言っているように思われます。

罪の赦しの中で暮らせることに私たちは天国にいるような状態になるのかと思いますが、現実は、この罪の赦しがなされないのではないのでしょうか?

旧約で言えば、祭司による捧げ物が十分に捧げられない、新約で言えば、イエスの十字架の罪の赦しを十分に信じることができない。そういう事が生じているのではないでしょうか。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去れ、とペテロは今日の聖書の箇所の2章1節で言っています。本当に人間は、イエスが罪を赦す十字架にかけられたと言っても、それを信じることもできず、他者の罪を赦すことよりも、自分の経済を活性化したいと思ったり、自分の暮らしやすい環境を作ったり、病気を癒したり、自己実現を図ったり、そういうことをすることに価値をおくようになっているのではないでしょうか? そのために、人を裁いたり、差別したり、排除したりしている、自分になっているように思えてくるではありませんか?そして、その方へと流れてしまっている自分にも
気づきます。

しかし、裁いたり、差別したり、排除することでは、喜びは与えられないのだと思います。そういう暮らしを追われる方々と共に生きてこそ、喜びがひとしおになるのではないかと、本日の聖書を読んで思います。
すべての人が暮らしに追われず、余裕ある暮らしができる、祭司になれる、神様は人類をそのように本来お創りになったのでしょう。それを阻むことを取り除いていきたいものです。

皆様の祝福をお祈りします。