出エジプト記39章22節~40章38節(朗読40章28~38節) コリントの信徒への手紙一3章10~17 讃美歌21(400、504、541) 平和の共同体の心得「準備」 催し物は準備がしっかりできたとき、成功するものです。催し物はみんなで行うもので共同体形成に大きくかかわるものです。 本日の聖書の箇所は共同体で何かをみんなでしていく上で何が大切か、何を目的にするとよいのか、を伺い見ることができる重要な箇所であると思います。 カナン地方へこれから旅立つ準備をイスラエルは行います。シナイ山からカナンですから、300キロメートルくらいです。1日1キロ歩けば1年で着くのですが、そこを40年かかったのです。どうしてこんなにゆっくりだったのだろうかと思ってしまいます。さて、この旅の準備はどんなことをしたのでしょう。それは39章32~43節に書いてありますように、幕屋といって神の礼拝をするため施設を完成させたことでした。「イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおり行った。」とあります。天幕、祭具、壁板、留め金、横木、柱、台座、赤く染めた雄羊の毛皮の覆い、じゅごんの皮の覆い、至聖所の垂れ幕、掟の箱と棒、贖いの座、机、およびそのすべての祭具と備えのパン、純金のともし火皿、すなわち一列に並べるともし火皿、およびそのすべての祭具と灯油、金の祭壇、聖別の油、香草の香、天幕の入り口の幕、青銅の祭壇と青銅の孔子、棒とそのすべての祭具、洗盤と台、庭の慢幕、その柱と台座、庭の入り口の幕、綱と杭、および臨在の幕屋で行われてる幕屋の務めに必要なすべての祭具、聖所で仕えるために織った衣服、すなわち、祭司アロンのための祭服、およびその子らが祭司として仕えるための衣服。でした。それらをモーセのところにもってきてみせましたら、主が仰せになったように作業を行っていたので、モーセはイスラエルの人々を祝福した、とあります。 この準備とは礼拝するための準備ではありませんか。そして、カナンの地にこれから向かっていきますが、おそらく、礼拝をしながらカナンに向かって行ってそこで暮らすのでしょう。もちろん、そうして定住した後も、礼拝を守るための幕屋で礼拝をするような準備を完成したのでした。神に聞きながら歩む人生、礼拝をしながらの共同体の形成とその維持が重要だと語っているように思います。出エジプトの目的を次の箇所から理解できます。「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える(3章12節)」。「あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプトの王のもとに行って彼に言いなさい『ヘブライ人の神、主が私たちに出現されました。どうか、今、3日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください』(3章18節)」。「わたしの民を去らせて、荒れ野で私のために祭をさせてください(5章1節)」。もちろん、出エジプトの理由、目的には重労働に苦しむ人々の解放ということは重なっています。 今日のコリント信徒への手紙の箇所では、神を礼拝する教会が、人が崇拝されてしまって分裂状態にあったようです。そこで、パウロはひとり一人が神の神殿であると語り、それぞれの人にイエス・キリストが宿っている、教会はこのイエスキリストを礼拝するべきで、それぞれが人を褒めたり、尊敬したりするのも、人にイエスキリストが宿っているからこそではないかと語っているように思います。この神殿や教会の土台はイエス・キリストだと今日のコリント信徒への手紙一では語っています。自分を誇ってはけない、他の人間も誇ってはいけない、つまり、イエスキリストを誇るべきだと語っています。 日常的なことでも、なにか、共同体みんなでやろうとするときは、まず、主と交わり、たかぶらさずに、心を主に向けておく必要がある、ということでしょう。主に目を留めるだけで、その共同体の問題が解決されることもあるのです。また、主に目を留め、主の言葉を聞いたとき、わたしたちのなすべきことは、人々同士の相互理解(愛)、平和、喜び、親切、善意、誠実、柔和、節制など霊の実を結ぶような活動であることが分かります(ガラテア5章22節)。 そのための日常を送るなら(朝起き、顔を洗い、ご飯を食べ、語り合い、学び、仕事をし、遊び、友となり、恋し、結婚し、子育てし、サークルや地域活動などを行ったり、社会を形成したり、さまざまな活動をしていくなら)、これら地上で起こることはみな人間のものであって、神のものです。つまり、礼拝同様のものであると聖書から伺うことができるのです。その準備を私たちはするべきなのではないのでしょうか?今日の聖書から与えられる私がメッセージです。 皆様の祝福をお祈りします。