出エジプト記33章12~17節
ローマの信徒への手紙8章35~39節

平和の共同体の心得「私たちと共にいてくださる主」

自分が悪いことをしたり、穢れているように思ったりすると、神様のそばにはいられなくなります。私は人のそばにもいけなくなります。他人と一緒に生きていこうとはしなくなると思います。神様といるにはそれなりの品性なり、穢れのなさがが必用ではないか?と思ったりもします。

しかし、神はどんな私でも共にいてくださる、すごいお方であるということが本日の聖書からうかがい知ることができます。今日の旧約聖書の出エジプト記では、イスラエルの民が金の小牛を造り、自分たちの神としてしまいました。神に対する裏切りです。夫婦で言うなら浮気です。浮気をしたパートナーについては神様はどうなさるか?神は怒り、約束を破った罰は後で受けることになるとイスラエルの民に言い、「自分はもうイスラエルの民とは一緒に歩まない、しかし、あなたたちに与える、と言ったカナンの地は与えるから、そこに行きなさい。そこで住めるようにしてやるから」と言います。夫婦で言うなら離婚宣言をし、払う必要のない慰謝料払うからそれでやっていってくれ、というような神側の反応でした。しかし、モーセが一緒に旅路を同行してほしい、ずっとカナンの地にでも一緒にいて欲しいと頼みます。そうした腹を割った話し合い(聖書には11節に「主は人が友と語るように」とあります)の結果、モーセの希望その通り、一緒にいてくださるようになりました。そして、モーセに「安息を与える」と言い、民を恵み憐れむとさえ語ります。本日の新約聖書にもなるともっとすごい。ローマの信徒への手紙でも、「どんなものも神の愛から私たちを切り離すことができない」と言います。新約聖書の時代は人がイエスを殺した時代です。夫婦で言えばパートナー殺人。殺されてもパートナーを愛し続ける神様が本日の聖書から読み取れる神様です。神イエスの肉体は滅されても、イエスは滅ぶことなく、イエスは「神の愛」という形で、殺人犯である人々と一緒にいて離れないというのです。私がイエス以外に頼っても、イエスに殺意をもっていても、無視していても、この世の環境がどのようであっても、イエスは一緒にいて私たちを愛して恵みと憐れみを与えてくれるということのようです。これは驚きです。

今日の聖書の箇所から、どんなことがあっても私たちと共にいる神さまがおられることが伺えます。そのことから「自分に都合の悪い人や一緒にいたくない
ような人とも共に暮らしていけ!」と神様が私に求めているように思うのです。
そんなことできるわけがないと思っている私に向かって、イエスはそう語りかけているように思われて仕方がないのです。

みなさまの祝福を祈ります。