聖書 出エジプト記19章1節~25節
   ヘブライ信徒への手紙5章2節
説教 平和の共同体の心得「祭司の王国、聖なる国民」

生まれながら自然体ってありますよね。王には王の貫録っていうものがありますし、リーダーにはリーダーの資質みたいのがありますよね。人それぞれ賜物があるっていわれますが、こう年を取ってくるとそう思いますね。皆がリーダーになるのはできないですし、やっぱり、平民、庶民という人々もいますよね。私昔、東北大泊附属病院にリハビテーション部に勤めていたことがあるんです。そこは、研究、教育、臨床とまあ、いわばこの世のリハビリテーションのトップを行くような使命が課せられていたわけですね。そこで言われたのは「自分を殺して務めなさい」ということでした。心理の先生でしたから、ははー、そうですか、とばかり、自分を殺してトップの人や上の人のいうことを聞くような暮らしをしていました。6年近く。しかし、私はどうもそういうところは向いていないように思われました。自分を殺しては生きられない、私は自由に生きることが性に合っているようです。6年間も、そのときも鳴子教会に通っていて、牧師となる召命を得ました。そして、東北大学での仕事はやめ、今は気仙沼の障害者支援施設只越荘で仕事をしながら、牧師もしているわけです。私はだいぶ自由なんですね。私は自分を殺す人生から自由の人生へ出エジプトしている最中かもしれませんね。
そのかわり、名声を得たり、お金を儲けたり、はできませんが。身の丈にあったことしかできませんけど。それでも自分はだいぶ自分は殺さなくて良くなっていると思っています。ただの人、庶民小野寺である自由を享受させてもらっています。

エジプトの重労働から解放され、導き出されたエルサレムの民はシナイ半島のシナイ山の麓に着きました。モーセと民はそこで神の言葉を聞きます。「世界はすべてわたしのものである。あなたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と。ここにイスラエルの民の役割が示されました。イスラエルの民は全世界の神の祭司の役割(聖なる民でもあるということです)を担ったということです。祭司とは神と人との仲介者、すなわち人々のために人々に代わって神に礼拝と供え物を捧げ、祭儀を司る人、と説明されています(新共同訳聖書巻末用語解説p27)。組織で言うなれば中間管理職のようです。トップと末端の調整役で組織体が上手く機能するようにしていく役職でしょう。さて、このトップの神は末端の世界をどうしたいと思っているのか。虐げられて来たエジプトから解放されたことが記されている本日の聖書の箇所から考えれば、虐げられているものの解放、差別偏見撤廃、平和、ということになるでしょう。聖書全体から言えば、敵をも自分と同等の人として応じる(これを「愛し合う」といいましょうか、「神の支配する」といいましょうか)世界の実現ということになると私は解釈しています。本日のヘブライ信徒の手紙5章2節に「大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」とあります。このような人が祭司なら、いや、大祭司なら、すべての人が大祭司であればいいのに、と思いました。そういえば、宗教改革者ルターが万人祭司って言っていたことを思い出しました。流石先人です。

「敵を愛せ」というイエスの教えがありますよね。大祭司はこれをするのだと思います。ですが、廣石という神学者は敵を愛するというのは、支配者が出来ることだといいます。たとえば、シーザー。ローマ帝国が世界拡張していったとき、敵となった地域地域の囚人に自治区の政治を任せ、長として扱ったといいます。これがどうしてできたかといいますと、強い王だからできたことだったそうです。ところが、イエスは国の王にいうのではなく、わたしのような、平のただの庶民に敵を愛せ、というのです。つまり、平民に王のように敵を愛して生きよ、というのです。イエスは敵を愛して生きよ、と庶民にいうのです。敵を愛することができれば、私たちはこの世の支配者でありうる、王であり、大祭司であるのです。庶民であろうが、病人であろうが、だれでも、敵を愛することができれば、この世の支配者であり、王であり、大祭司でありうるのです。

皆様の祝福を祈ります。