聖書 出エジプト記17章1節~7節、申命記32章48節~52節
   マタイによる福音書4章1節~13節
説教 平和の共同体の心得「主に従う苦難は必ず、祝福へ」 小野寺清栄牧師

主に従う生き方は必ずしも安楽な状態ではありません。むしろ苦悩が伴う歩みです。善を行おうと思っても回りから非難されたり、憎まれたりさえすることは、誰しも経験していることではないでしょうか。私も食事介助に入った人から、「たべらいん。オメ食べらいん。おらくわね」と言われ、私の食事介助を拒否されました。30分たっても食べてくれませんので、別の人に交換したら食べてくださいました。結局、その方は自分が好きな人にはいいけど、嫌いな人にはガンとして何もさせない人でした。私は嫌われたのです。介助しようとしのに、拒否。私何か悪いことしました?介助がへたくそかもしれませんが、なんできらわれなきゃいけない、ほんとに残念で屈辱的でした。

善悪の大小  
   内村鑑三も「聖書之研究」大正4年(1915年)6月10日号で以下のように語っています。:

 悪人に大小があり、善人にもまた大小がある。小悪人は、悪人であるから、悪人として世に認められる者である。大悪人は、悪人なのに善人としてこの世と教会とに認められる者である。それと同様、小善人は、善人であるから、善人として世に認められる者である。大善人は、善人であるのに、この世と教会とに、悪人として認められる者である。そして、私たちの主イエスキリストが第四種の人であって、その模範であったことは、言うまでもなく明らかである。そしてまた、彼の忠実な弟子は全て、「大善人」の階級に属すべきものであることは、これまた言うまでもなく明らかである。主は言われた。

 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。 (マタイの福音書10:25)

願う、私たちは小さいといっても、イエスの弟子と称せられる者であり、私たちの師イエスキリストにならって、この世と教会とに、乱臣、国賊、異端、偽善者と呼ばれる真の善人となることを。

これを読んだとき、そうだそうだ、私も食事介助をして人のためになることをしようとしたのに、当のその人から、嫌われるって、私こそ大善人ということでしょう。まあ、こういう人がいないと世の中平和にできないんだよなあ、私もイエスと同じようなもんでしょ、ちっちゃなイエスよって自分で自分を慰めるのでした。

本日の聖書の箇所は、神様に従ったモーセですが、荒れ野で導いてきたイスラエルの民から、水がないと不平不満がまた生じます。民はモーセと争ったと聖書にあります。恐らく、イスラエルの民らは、水を神に出してもらえ、とか、神は本当にいるのか、いるのなら、水を出してもらおう、そうしたら、信じてやろう、などと思っていたのかもしれません。それでも主はそこで水を奇跡的に与えました。しかし、このことでモーセは責任を取らされるのです。それが申命記32層48節から52節に書かれていることです。エジプトからイスラエルの民を、乳と蜜の流れるカナンの地に導いてきたモーセでしたが、カナンを目の前にして、死ぬと宣言されてしまいました。120歳まで生きていたとはいえ、イスラエルの民を神様の命令に従って導いたのに、不平不満を聞いてイスラエルと神様の間に立っていたのに、何たる結果、モーセがカナンに入れないとは・・・ここを読み、なんと神様は、情けがないのか、きついのか、と、また、私も不平不満を神様にぶつけてしまいました。罰が当たらないといいと思いますが。しかし、モーセはその後、なんと、12・300年後に白く輝くイエスの話し相手として預言者エリア(紀元前900年から850年頃活躍し死なずに天に上げられたとされている)共に現われる事が記されているのです。ここの新約聖書の箇所マルコによる福音書9章2節から13節に私は慰めを受けるものです。

主に従う事で、苦労し、苦難に遭い、教会からも憎まれる事があっても、最終的には主と共に語り合える状態になり得るという希望、喜びを、今日の聖書の箇所から与えられるのです。たとえば、敵を愛しなさいという主の言葉に本当に従おうと思っている方々に祝福がありますように。

この説教を作りながら食事介助した、彼のことを思いました。
彼は何か悪いことをしたのでしょうか、いやなものういやだって言ってどうしてわるいんだろう、彼にとって食事は私が介助してはいやなだけだったんだ。別の人ならいいんだ。それだけの話じゃないか。彼は、食事を拒否しましたが、拒否の言葉は「あんだ、くわいん。俺食わない」というだけで、私がいやだとはいっていないのです。解決すべき問題は彼が食事ができることです。しかし、そのとき私が問題にしていたのは、自分の介護力、介助してあげることができる能力、介助できてえらいんだぞ、と自分の技術力を確認したかったことができないことだったのです。彼は悪くないですね。むしろきをつかってくれたのかもしれません。
そのことを考えると、実は私は、自分の能力を試すために、食事介助を通して人を利用するという、人のためでなく、自分のために弱い人を利用するという悪いことをして、そして、自分は人からよく見られようとしている、大悪人になろうとしていたことが分かったのでした。

悔い改めます。