出エジプト記13章1節~22節 マルコによる福音書2章23節~25節 説教 平和の共同体の心得「人のために」 最近、パワハラ事件に遭遇して、パワハラされた方が裁判に訴えて、和解するという事例に出会いました。よかったと思います。パワハラ・セクハラの話はいじめを含め、いとまがないことですが、こういう問題意識は重要であってだいぶ世の中がここ30年間かわってきているようにおもいます。これはいい傾向です。これは聖書が示す、あるいは、イエスが示した事柄と関係が深いと思います。イエスはすべてのハラスメント、いじめや差別に問題意識を覚え、それら撤廃に活動し、最後にハラスメントによって葬り去られた人、というこになりましょう。このイエスや聖書の示す思想は今尚且つ益々必要とされることでありましょう。 本日の聖書の箇所には、初子を捧げる事(人のこの場合は、子羊で贖わなければならないというようになっています)と徐酵祭という記念日(酵母を入れないパンを食べる日)について書かれています。除酵祭というのは、過越し祭に続いて7日間守られるユダヤ教の祭日。エジプト脱出を記念するため、当時の故事に倣って、パン種を入れないパンを作った事から、この名称で呼ばれた。太陰太陽暦のユダヤ暦のニサンの月の15日から7日間である。太陽暦では3月末から4月始め頃。※これは、ユダヤ教の儀式、行事、慣わしです。 これらの行事がなぜ行われるかが、ここに説明がされています。 初子については、13章14節から16節にありますように、モーセがイスラエルの民に言いました。 「将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』 あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」 除酵祭についても、13章3節に、 モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。 とありますし、8節から11節に あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。あなたはこの掟を毎年定められたときに守らねばならない。 とあります。 このことから、初子を捧げる慣わし、除酵祭の儀式は、主がイスラエルの民を救い出したその恵を、奴隷の苦しみから解放された、そのような神様がいらしてくださった、という、ことを人々が記憶し、思い出し、忘れないようにするためのものであるということがわかります。人々が奴隷の苦しみから解放された、神は人々を苦しみから解放する神だ、人は奴隷状態から解放されるのだ、神様の御心とは、奴隷の人間を奴隷の状態から自由に解放することだ、ということを、初子を捧げる慣わし、除酵祭は意味し、表すものでした。 エジプトを出てカナンの地に向かう時も、ファラオが遠回りの道を行くようにされました(これは、近道のペリシテ街道は、軍備のすごいペリシテ人がおり、ファラオがイスラエルの民が怯えてエジプトに引き返す事を恐れてのことでした)。そのとき、神さまは、夜は火の柱、昼は雲の柱になって、イスラエルの民の先頭を離れることがなかったと、語られてます。 本日の新約聖書の箇所は、安息日の慣わしについてのイエスとファリサイ派の人々の問答がかかれています。安息日にイエスの弟子たちは、歩きながら、麦の摘み始めました。これは、農村では、日常茶飯事の出来事だったらしい。それを都会のファリサイ派は批判します。律法違反だと。 安息日は、神様が十戒によって定めた規定です。出エジプト記20章8節から11節に、安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。 安息日は仕事をしてはならないのが、ユダヤ教の慣わしでした。ファリサイ派の人々はイエスの弟子達12人がすることを監視していたのでしょうか? よく見ていたものです。安息日の規定は、神様の創造の業に対する規定であって、恐らく、そうする事で、神が創造主である事をいつも思っていようとする、神様が私たち、全世界を作られたことを、忘れないようにするための掟だったとのでしょう。十戒の全文にもりあますように、「わたしは神、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいて他に、神があってはならない」といわれています。 安息日の規定も、奴隷状態から解放してくれる神が自分の神である事を確認するためにあるのであって、安息日を守るために安息日があるのではありません。人はいかなる人においても奴隷にされてはいけない。奴隷から解放されるべきである。それをなさったのが、ユダヤ教の神である。安息日はそのためにある。人を解放するためにある。虐げられる人ためにこそ安息日はあるのであって、その方こそ、安息日に自由になれるのです。安息日はいいなあ、と思えるのです。安息日の主とは、虐げられている人々のことだ。疲れている人たちのことだ。休養が必要な人たちのことだ。その方々の解放へと、進むべき事こそ、安息日にするべきことだ。主の日の聖別とはそういうことではないのか!とイエスはいいたかったのかもしれません。 私たちの神は、奴隷の状態から解放してくださった神であり、今もそのように働き、今後もそうしていかれる神です。また、人間も奴隷状態から、虐げれている状態から、解放されるべき生き方が人間の本来の生き方であると聖書から伺えます。 私たちの暮らしの中で虐げれている人たちは誰でしょう?そばにいませんか。そういう方がいらしたなら、そのような方々の解放を祈り、実現していこうではありませんか。