出エジプト記7章14節~7章23節 コリント信徒への手紙第一10章13節 題:平和の共同体の心得「災いから逃れる道」 讃美歌21 210 525 507 出エジプト記は、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民が、神様によって遣わされたモーセに率いられてエジプトを脱出する、奴隷状態からの解放の物語です。ここにわたしたちの暮らしと神のみこころの関係の意味がはっきりしてきます。神様の御心とは、御業とは、命を縛るものからの解放だと思います。奴隷の解放がそう簡単に、一朝一夕に行われるはずはないことは、アメリカの黒人奴隷解放の歴史を見ても明らかです。1865年の南北戦争終了から100年立ってキング牧師が現れ、公民権運動を展開、1968年銃弾に倒れました。その後約50年経って、オバマさんがアメリカの大統領になりましたが、まだ、まだ、差別、この差別は、人が生きる道を閉ざす差別です。たとえば、黒人をケガさせても無罪になったり、殺しても保護観察処分にされたりするようなことが、1990年代にも生じています。今でも、差別問題は一部の人で残っているようで、完全には解決されていません。同性愛者もアフリカでは終身刑になる国もあります。日本でもヘイトスピーチと言って、中国や韓国、朝鮮の方々への差別発言が問題になっている現状です。差別が残っているようですね。 イスラエルの民のエジプトからの解放も御多分に洩れず、支配者エジプトの王であるファラオの頑強な抵抗によってなかなか実現しませんでした。ついにファラオが屈服してイスラエルの解放を認めるに至るまでに、主なる神様がモーセとアロンを通してエジプトに数々の災いを下されたことが、出エジプト記の7章から12章にかけて語られています。そこには全部で十の災いが下されたことが記されています。本日の箇所の冒頭、7章14節から24節までが、ナイル川の水が血に変わるという「血の災い」(第一)、25節から8章11節までが「蛙の災い」(第二)、8章12節から15節が「ぶよの災い」(第三)、16節から8章の終わりまでが「あぶの災い」(第四)、9章1節から7節が「疫病の災い」(第五)、8節から12節が「はれ物の災い」(第六)、13節から9章の終わりまでが「雹の災い」(第七)、10章1節から20節が「いなごの災い」(第八)、10章21節から終わりまでが「暗闇の災い」(第九)、そして11、12章が最後の十番目、エジプト中の初子、つまり最初に生まれた子供が殺されるという災いです。この十番目の災いが決定的ものとなり、イスラエルのエジプト脱出が実現したのです。 これは映画等になりましたが、これは、随分エジプトに対してひどいことするんじゃない?と思ってしまいます。10の災いを本当にエジプトにもたらしたのかと思ってしまいます。これは自然災害でしょう。エジプトでよく生じる、自然災害だと思います。これを神様が生じた業としたんだと思います。重要なのは、苦しみからの解放を行ったということ、人が差別されたり、抑圧されたり、元気に生きることが拒まれている状況を打破していったことにこの物語に注目された方がよろしいかと思います。 主の御業は、生きることを阻止するようなことを解放していく、これを自由と呼んでよいと思います。自由はげんきはつらつ、命の輝きを放つはずではないでしょうか。勝手気ままとは違うと思います。脱法ハーブや覚醒剤を自由だからと言って使うことは過ちだと思います。自由には命の輝きが伴うと思います。 ある職場で、昨年12月25日の朝、パワハラ事件が起きました。理事長がある職員へ別の施設へ異動するように、25日職場に来ているにもかかわらず、その朝から自宅待機し、1月1日から隣の施設へ異動するように命じ迫りました。職員の言動が上部職員に気にいらなかったらしく、注意指導もせずのことです。本人はこんな職場にはいられないと辞職願を出し、退職。その後、理事長のとった処分に対して、パワハラではないかということを弁護士を通して裁判になりました。裁判は有罪、無罪ではなく、労働争議の和解を求める事案になったようです。私はこの問題に当日から関わっており、ご本人から、もう、おれやめっから、と言われていたので、 理事長にも幹部にもパワハラではないか、と再三話してきました。 結局今週の月曜日和解にこぎつけるようで、胸をなでおろす思いです。神様はこの施設に働かれているなあ、と思う次第です。 主に従う事は、災いから逃れること、これは、そう思います。主に従うことによってではありませんよ。主に従うことと災いから逃れることは同じことだといっているのです。出エジプトからそれは思い起こされることです。主に従うとは、命の抑圧や命の破壊・滅びからの解放を意味します。 コリントの信徒への手紙第一10章13節はそのことをもっと鮮明に語っています。あなたがたを襲った試練の中で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせられることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。 > 解放の道をあえて選ぶこと:こちらは犠牲を伴う、こちらは人権を獲得していく場合の戦いです。非暴力とはいえ、出エジプトでもエジプト側にかなりの打撃があたえられました。これはある意味モーセ軍の勝利とも言えましょう。黒人の公民権運動でも南北戦争、ケネディー大統領やキング牧師の暗殺など犠牲者が出ています。イエスキリストもその犠牲者であったのかもしれません。 そして、この聖書を読み、思い描ける希望は、世の支配者が解放の道を他者に与えることです。こちらは犠牲を伴いません。それがおそらく終末の希望、やがて来ると聖書に黙示され、約束されている、新しい希望の国、神の国なのでしょう。それを知っている我々はどんな状況にこの世があろうとも、細く感じられるかもしれませんが、一筋の希望は失うことはないのです。