聖書 出エジプト記5章1節~6章1節 ルカよる福音書16章1節~13節 題:平和の共同体の心得「命のために」 中間管理職はよく板挟みにあうようです。 板挟みになるのはモーセです。民と神、民とファラオの間に入って調整します ファラオへ申し出ます。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」それにより、ファラオとモーセの間に対立が生じ、ファラオはイスラエルの民を更に重労働を課し、エジプトに縛りつけようとします。 この板挟みはスケールが大きい。エジプトの政策に対する抗議でもあり、政策提案でもあります。今の阿部政権に原発廃止、集団的自衛権の破棄を迫るよりはるかに困難な課題だということです。それを軍事力なしで交渉で(しかも口下手なモーセが)成し遂げた話でもあります。聖書はこれを神の業として語り、イスラエルの民は神どんな方かと言われたときその答えとして出エジプトを示します。これは命を得るためになされた業と理解します。出エジプトはエジプトの重労働をはじめエジプトで不条理な抑圧、縛りからの解放にためになされたからです。 本日お新約聖書はイエスのたとえ話ですが、不正な会計管理人の話です。この管理人は主人の金を無駄使いしていると告げ口するものがおり、主人から解雇されることになります。彼は他に生業を立てることもできないようでした。かといって物乞いになるのも恥ずかしく思い、ついに、策を練ります。主人に借りのある者を次々に呼んできて、借金を半額にしたり、棒引きしたりして、彼が退職したときに家に迎えてくれる人を作ったのです。主人はそのことを知り、その抜け目のない管理人を褒めた、という話です。これはとんでもない話です。しかし、命を繋ぐという観点からみると、こういうこともありなか?と思います。神様は人が生きるということを本当は望んでおられるんではないでしょうか?人がむしろ制約を作り、生き辛くしてしまっている、現実とはそういう世なのかもしれません。 しかし、主はその中で働かれ、主ご自身が人を生かしてくれる奇跡を起こし続けてくれている現実でもあるということが、本日の聖書からは受け取れるメッセージです。どんなに困難に見えても私たちの生きる道は与え続けられている、こう思うと心安らかに何事にもあたっていけそうに思います。 みなさまの祝福を祈ります。 しかも、主人はそれを褒めるというこの対立は文明・経済大国に留まるか、目に見えない、あるかないか分からない、霊的にしか受け取る事の出来ない、神、主に従って、祭りをするためにエジプトを離れるか、どっちかを選ぶか、岐路に立たされた感があります。 祭りのすがすしさ 夏祭りがあちこちでなされていますが、参加するとすがすがしいお祭りがありますよね。そのようなお祭りとは、祭りの参加は基本的に誰でもokなんですね。そして祭りは人間の命について、元気になるとか、守られるということが基本にある、祈りとしてあるように思います。 ある病院の院長先生のお話なのですが、 人の幸せについて、3つ上げています。 食べて寝て、他者とよい関係を作ることだと。 私はこの話を聞いてこれは、神様から与えられた人生なのではないかと思いました。その先生の意図するところは健康とか人間が生きる道とかいうことを意味しているように思いました。 これを聞いてなるほどと思った人もいますが、 そういう話は誰からも受け入れられないと否定する人もいます。 ここでの問題は他者とのよい関係を作るとは、人はパンのみで生きるのではない、神から出る一つ一つの言葉で生きるということなのだと思います。 セクト化 ユダヤ まとめ