聖書 出エジプト記4章1節~17節、ヨハネによる福音書9章1~12節 説教 平和の共同体の心得「試みにあっても 障がいの意味」 讃美歌197、446、92 本日の出エジプト記は、200万人以上をエジプトから今のイスラエル周辺のカナンという土地待ちで導くリーダーとなるように主から命じられたモーセの話です。彼は、その使命を果たす自信はありませんでした。その理由の一つに言語障がいのようなことがあったからです。「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」と語ります。この言語障がい、吃音、どもりではないか、とも言われています。 どもりは100人の子どもに5人は吃音を発症するそうです。そのうち4人は自然回復するようです。100人に一人はどもりだということになりますね。 昨年7月に札幌の病院で34歳の男性が遺書に吃音を苦に自殺という記事がありました。 言語障がいのリハビリに関わる私にはショックな事件でした。リハビリの最大の失敗は自殺と言われているからです。吃音は、原因は親だという考え方がかつてあったそうですが、今では完全にその話は否定され、原因は本人の生まれ持った素質だということです。親は不要な罪悪感を持たなくていいと、吃音で医師になった菊池良和さんという方発達教育という雑誌の巻頭言に書いていました。 主はモーセの言語障がいをカバーするため、アロンを代弁者として立て、エジプトの苦しみからの解放という神様の計画を進めることにしました。この対応って吃音者には非常に有用だと思います。頑張って話させるんじゃなくてですね。 本日の新約聖書のヨハネによる福音書では、生まれながらの盲人について弟子たちがこの人が目の見えないのは、本人や両親の罪のためか、とイエスに訪ねます。イエスはそれを否定し、「神の栄光がこの目の言えない人に現れるためである」と言い、盲人の目を癒し、目が見えるようにされました。 旧約聖書には障がい者は穢れた人間として扱われ、祭司になることはできないという規定(レビ記21章17節)もありました。私など身体障がい者(手帳2級)はそれだけで当時だったら牧師などなってはけない人です。私は牧師となろうと思ったとき、聖書のこの箇所が気になりましたが、今の日本キリスト教団では大丈夫だということでした。 一見、障がい者を排除しがちにみえる旧約聖書にさえ、言語障がいのあるモーセが200万人以上のリーダーとして選ばれているのは救いです。私とモーセを並べるのは自意識過剰も甚だしいですが、それでも、とても解放された思いになりました。イエスは障がいの意味を神の栄光を現すこととしています。神の栄光とは、苦難や束縛、虐げられた生活からの解放ということでしょう。一人ひとりだれにも障がいのような不具合があるかもしれません。人が集まる集団、組織にも不具合が生じているかもしれません。イスラエルの民全体も実はまともな民ではない、もっとも、貧者な民、とされていました。そういう貧弱な、神に背くイスラエルの民の物語が生き続ける旧約全体に示されているんです。もちろん、そこに、イスラエル王国というイスラエルの国家もありますが、他方、アッシリア帝国や新バビロン帝国にイスラエル国家は滅ぼされ、しかし、民は捕囚となって生きる。そして、その貧弱さを救ったり、神の背きを赦したりするのが、神であると、聖書は語ります。神、イスラエルの神は、貧弱さを救ったり、神への背きを赦すとある。アロンに神は働かれたでしょう、イスラエルの民にも、また、それと同じく、アッシリアの人々、バビロン帝国の人々、彼らに神の力が働かなかったというなら嘘になると思います。エジプトもそうです。神の力が働いたのです。 障がいのある人や不具合な人を活かしてくれる人がいること、あるいはその環境があること、それが、神の業であるということでしょう。障がいがある者が生きられるようにしてくれるのが、神の業だ、ということ。イエスはそういうことを盲人に告げたのだと思います。神の業は盲人であるあなたを生かすようにすることだ!神の業とは、そのようなものだ、その不具合から、苦難や束縛、虐げられた生活から解放するように世の人を動かしていると私は本日の聖書を読み、また、自分の経験から思うのです。 最初の方にあげた吃音の方は、なぜ、そういうことが起こったのか、原因を追究中なそうです。学会も創設されたようです。何か、この事件を思うと、残念でなりません。神の業を妨害する何かがあったのでしょうか?いや、現実は差別社会だということなのかもしれません。それだけに、神はその過ちを指摘し、差別してはならい、どんなひとでも生きやすくする工夫をして、一緒に暮らしなさい、とでもいいたいのだと思います。 わたしたちは吃音のある人にはその悩みを聞き、生きやすくする工夫をしていきたいものです。 皆さまの祝福、解放を祈ります。