イエスの弟子 本日も気仙沼市長選挙がありますが、本当に気仙沼市のために、イエス様が導かれるような人になって頂きたいと思います。 イエス・キリストの弟子たちが、イエスから選ばれている記事がかかれていますが、彼らは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病を癒されるために」弟子とされたとあります。イエスの地上での仕事の一つでしょう。 しかし、イエスの弟子たちは、ごく普通の者のようでしたし、聖書にもそうそう有名な人としてでてきませんし、歴史に名を残した方ではないような方でした。ユダにおいては、イエスキリストをローマの帝国の売って、裏切り、自殺してしまうような人でした。イエスが十字架にかかることを知ると、逃げてしまうような人でした。そんな人たちでしたら、イエスのグループはまとまりのないグループでした。日本においてグループを作る人が多いですが、そういう方々よりは弟子といってもそんなに忠誠を誓うようなグループではなかったようです。また、12人ですから、友人関係のようにいつでも離れることもできたでしょうし、くっついていることもできたでしょう。イエスの弟子は誰でも良かったのかもしれません。たまたまであった人だったり、親戚だったり、身近な「人」を弟子にしました。人間ならだれでもよかったのかもしれません。 そういう、組織でしたから、そんな大きな行動はできませんでした。悪霊を追い出し、病を癒すことはしていったようです。 弟子たちはしかし、ただ一つだけ、はっきりしんじていたことがあります。それは、イエスキリストが神であり、救い主であるかもしれない。という信仰のみが、彼らが、イエスの弟子になったことです。 ですから、イエスの弟子になりうるのは、イエスへの信仰のみでよいということになりましょう。 わたし達は、イエスの弟子になるためにいろいろ条件を考えてしまいます。じぶんにはそんな立派なところがない。イエスを信じて悪いことをしてしまったらどうしよう。回りから、「あんな人がクリスチャンだ、なんておもわれたどうしよう」というように思ってしまうことがあるでしょう。それにクリスチャンと言う人ほど、生意気だったり、高慢だったり、怠惰だったりするものです。 しかし、イエスの弟子たちがすばらしいことをなしたかといえばそうではなかったようです。また、組織としてうまく機能したかといえば、そうでもなかったようです。なんだか、しらないけど、なんとなく、救い主だというような、イエスについていくといった感じだったと思います。だから、組織体として機能していたかと言うと、そうでもないと思います。また、下八瀬自治会や老人クラブの寿会、只越荘や気仙沼市のほうが優秀な組織体だと思います。 しかし、神イエスは一見、組織の欠点、人間の欠点に思えるところを用いて、といいますか,引き受けてくださって、神の業を現してくことをしようとされているように思われます。その際たる物が、イエスの十字架であったわけです。われわれは罪びとであるにもかかわらず、イエスのその十字架で救われたのですから・・・。罪があってもイエスはそれを十字架と言うあがないの業で、許し、救いの業をなされたのです。 ですから、自分のありのままを神の前に差し出して、イエスを自分と他者すべての救い主だと信じていくことができるのだと思います。 また、弟子になるということは、イエスが任命することです。 クリスチャンは日本では約1%といわれているかもしれませんが、内村鑑三のように教会に所属しないイエスの弟子もいるかもしれません。 イエスを裏切ったイスカリオテのユダもイエスの弟子になったということを考えると、資格は「人間」なら、誰にでもあるのではないかと思います。 私にも神・イエスの弟子になる機会が与えられているということはなんという恵みでしょう。 自分自身に恐れることなく、周囲に恐れることなく、イエスを救い主と信じて、自分のすべての思い、気になる思い、願い、などを祈りつつ、歩んでまいりましょう。