創世記50章1~26節、ルカによる福音書1章67~80節 平和の共同体の心得 顧みてくださる主 本日で創世記を終えます。 創世記全体で何を言おうとしたのか、考えてみますと、 天地の創造、人間アダムとエバの創造、結婚、 カインとアベルの兄弟の争い、 洪水からのノア一族の救い ソドムとゴモラの堕落都市の滅亡 アブラハム物語、サラとの夫婦の間の話。 イサク一人の息子と父親について、ヤコブとエサウの和解、 ヨセフと兄弟11人和解、の物語となります。 本日の聖書はヨセフ物語の最後です。 水野龍一という人は、ヨセフ物語の解釈については、それぞれが解釈して良いと言っています。実に私語のみのことを言ってくれて嬉しいなあと思います。しかし、聖書は読み込んでおいての話ですがね。 ここの聖書から私が学ぶべきことは、「神は必ず、あなたがたを顧みてくださり、」ということばが2箇所出てきています。「神が顧みる」とはどういうことでしょうか。ただ、思い出すということでしょうか。そうではありません。顧みるとは「ヘブル語でパーカド」という言葉で、「訪れる」「報いる」「罰する」という意味にもなるそうです。そういう視点からすると、今日の創世記では、ヤコブの埋葬が書かれていますが、これは、ファラオ波の葬儀だということがここに書かれています。防腐剤を施されミイラにされ、エジプト人は70日喪にふくし、盛大な葬儀であった。こういうことから考えると、ヤコブは神から顧みられると思いました。 兄弟たちはどうか?11男のヨセフだけ、父のヤコブに愛されているようなので、妬んでヨセフ殺害計画を計画するが、未遂に終わり、エジプトに売り飛ばされる羽目になった。しかし、ヨセフはエジプトの実質上の支配者になり、日照り食料難対策で効を得、兄弟たちをエジプトに連れてこさせ、結果的に兄弟たちはヨセフに支援される結果となり、おんぶに抱っこ状態となった。これは、いいというべきでありましょうか、つまらないでしょうか。お兄さんたちはヨセフにたして妬みとか、引け目とか、多くあったのではないかと思います。それで兄さんたちの方から、和解の確認みたいなことをしていたり、何かあったのですね。そのとき、ヨセフは許すことをして、これまた、立派さが引き立つように私たちは読んでしまいます。兄弟たちはここでまた、ヨセフに委ねるようになってしまいます。 ヨセフの死 あまり目立たない。ヨセフの葬儀で喪に服すような人がいなかった。 なぜ? 兄弟から好かれていない。エジプト人民―あまりいい政治家ではな い。所有物をみんなエジプトのものにされた。人民は奴隷にされたのです。ですから、不平不満はあったようです。ヨセフも死において全うした感じではない。アブラハムは満ち足りて死んだけれども孫は厳しく、悲しい人生だったんかもしれません。 顧みられる 主は実際の暮らしに、もう、報いや裁きを与えている、とも考えられる。 旧約に出てくる人たしは、平和的ではなのようで、殺人的でもあります。しかし、それでも顧み、約束を果たす神です。産めよ増えよ、カナンの日に子孫を増やすという約束。 新約、救いがあるというメッセージ。憐れみ、敵の手から救われ、平和が与えられる、という預言、神がなす事の予定をここでは語っている。それは救いです。 主は顧みます。それは、我々を暮らしの場から救ってくれるためだという。 例えば、 自分当てはまる主の顧みはそれぞれありませんか?数えてみましょう。