聖書 創世記42章1節~45章28節 
(朗読個所 創世記 42章26節~28節)、
マタイによる福音書5章21節~26節 
説教 平和の共同体の心得「和解をもたらす神」
6、155、451

最近、シリアという国で毒ガスを使って、一般市民が巻き込まれたというニュースが流れ、アメリカやフランスなどで軍事攻撃も辞さないという雰囲気になっています。尖閣や竹島、北方領土の問題、拉致問題、沖縄の米軍基地問題、東電の放射能汚染の問題、はたまた、強盗や殺人事件など敵対するような問題がたくさんあるなかですが、本日の聖書を読む限り、和解は神のなさる業である事(本日の創世記)、また、我々の生きていく上での神様からの命令である事が分かります(マタイによる福音書5章21節~26節)。実に私たちはこの和解の神に支配され、和解の人生を歩む以外に道はないということを本日の聖書の箇所から学ぶ事ができます。敵対する者を赦していくこと、敵対する者から赦されていくことが可能であること、お互い赦し合える関係になる(和解する)ことができるのだということを本日の聖書の箇所は語っています。聖書から見る限り、軍を持たずに、赦すこと、和解がなされ、平和が実現されるのです。
それぞれの生活の場、活動の場で、この和解が実現しますようにお祈りします。

本日の創世記の和解は、単純ではないです。和解したのは、ヤコブの家族、ヨセフと他の11人の兄弟の和解。そして、エジプトとカナン、イスラエルとの和解が示され、飢饉と人間の救い、和解いう、少なくとも3つの要素があると思います。
ヤコブの家族は複雑です。ヤコブの妻は2人。レアとラケルの姉妹。そして、レアの侍女とラケルの侍女、で、ヤコブには4人の妻がいたことになります。これだけでもたいへんなのにヤコブはラケルをお気に入りでした。レアはヤコブに生涯より添いますが、果たして幸せだったでしょうか? レアには子供が6人いました。1番目と2番目、3番目、4番目、9番目と10番目、レアの侍女ジルパの子どもが2人7番目と8番目、ラケルの侍女が5番目と6番目、そして、ラケルの子供が2人、11番目のヨセフと12番目のベニヤミンです。ラケルは12番目のベニヤミンを出産後亡くなってしまいました。ヤコブはラケルが好きでした。それゆえ、自分の子どももラケルの子どもヨセフとベニヤミンが好きでした。さて、こういう状態ではこの家族、大変な状態ですね。妬まれたヨセフは兄弟の陰謀でエジプトに売られてしまいます。ここで、ヨセフとその兄弟にはかなりの溝ができてしまうはずです。しかし、聖書は、ヨセフの夢を解くとう能力を発揮し、当時の世界で文明最先端のエジプトの王に次ぐNO2実質の支配者、統治者になります。それは、ファラオの夢を、7年間の豊作が続いた後、7年間の飢饉が来るという夢の解釈で、豊作の7年間のうちに食料を蓄え、7年の飢饉に備えるようにとアドバイスしたためでした。しかして、自然はそのようになり、エジプトは救われ、そして、ヨセフの兄弟、家族も飢饉から物質的に救われたのです。今日の旧約聖書の箇所は、カナンからエジプトに下って行った兄弟10名(ベニヤミンを除く)が、穀物をヨセフから売ってもらって来たのですが、その代金が戻されていたということが書かれています。ヨセフがした支援はそういう事だった。仇を恩で返した、ということです。ヨセフの兄弟たちは、これを、後に知ることになりますが、兄弟に再会して喜んでいるのが、ヨセフとベニヤミンだけ(これらは両親が同じヤコブとラケル)なのです。いわば、婚外子の屈辱がここに示されているといってもいいでしょう。最愛の妻の子どもだけが喜び、多くの祝福を受ける。そのほかのいろいろな親の事情でできたこどもは、わき役とされてしまう、という、ことです。
一見、和解がなされているように思いますが、一触即発の状態になります。エジプトにしてもそうです。世に名だたるエジプト、その支配者が小国から売られてきた、奴隷でセクハラ疑惑で牢に入っていた、囚人だという。ファラオの息子や親類がいたでしょうに、政権を奴隷上がりの人に握られている、屈辱。さらに、飢饉の時代の対応といいまさすか、そういう自然災害との問題の解決を考慮せねばならないという、自然環境の問題も絡んできています。家族、国家、自然環境が問題だらけだということがここに示されているのです。そういう中を生き抜いてきているしたたかさを覚えるわけです。したたかさというより、よくもまあ、一緒の家族でいられるな、よくもエジプトで反乱が行らないな、自然の脅威に対してひるまないな、と思うくらいです。

最近、ニュースで言っていたのですが、向田邦子の小説が、また、読み返されているそうです。それはなぜかと言いますと。家族について、深い愛情を感じるからということでした。家族と言うことについて、震災後は、「やっぱり、家族だよね」「絆は家族だ」というように、何でも重要なのが家族だというように、家族へ、押しつけがましく、家族はたすけ合わなければならない、こうあるべきだ、みたいな、家族の実態にそぐわない、一つの価値観の押しつけみたいのがあった。しかし、向田さんの小説には、家族が故に話せなかったり、家族が故に解決できなかったり、そういう問題も隠さず、書いてくれて。安心した。そして、そういうものだと、覚悟してと言いますか、納得して、現家族を続ける力になったと言ってる読者を紹介されました。
創世記には人間と神の闇の部分がとても明確に記されています。よく、これで、家族をやっていられるな、共同体が形成できるのかな、と思うことが多いです。

しかし、その共同体は、神の約束により、増え、続いているのでしょう。一触即発の危険性を孕んではいますが、続いているようです。

そして、イエスからは腹を立てるなと命じられもしています。それだけ、日常に腹を立てるようなことが多いからでしょう。一触即発の状態だからなのかもしれません。

本日の聖書の箇所からみますと、我々の暮らしが、いたるところで、崩壊の危機に晒され、一触即発の状態でありましても、神様は、和解の可能性をしめしているように思います。皆さんが与えられている暮らしの場で、争いが生じませんように、和解の神の業に用いられますように、お祈りいたします。私たちの平和は和解の主に頼る以外ない、と思います。

お祈りいたします。