創世記40章1節~23節、マタイによる福音書25章14節~30節
説教 平和の共同体の心得「タラントーそれぞれの命」7,102,520

タレントというとテレビ・ラジオの芸能人のことをいいますが、才能と言う意味もあります。もともとは本日の新約聖書のマタイによる福音書のたとえ話に出てくる通貨の単位タラントンが語源です。このたとえは、神様から与えられた才能を十分使うようにしなさいということのたとえです。本日の創世記には、冤罪で牢にいるヨセフという人が、神様から与えられた夢を解く特殊な才能を使う場面が描かれています。これによってヨセフは後に牢から出され、エジプト王のファラオの夢を解き、エジプトの実質上の統治者になっていきます。このように神様から与えられた才能を十分に使うことによって危機から祝福へと変わるということを本日の聖書は語っていると思われます...。私たちに与えられた神様からの才能ってなんでしょうか?人にはいろいろな才能があると思います。私は、神様が私たちに与えた才能とは、それぞれにしかない命(その人にしかできない、そのひとらしい生活、暮らし)であると思っています。このたとえで神様が与えた最低の金額は1タラントンでした。1タラントンというのは6000日分の賃金です。神様は私たちを相当高く見積もってくれているようです。

実際のことを考えてみましょう。
さて、神様から与えられたタレント、才能というのは何のことなのでしょうか。ヨセフには夢を解く能力が与えられていました。わたしたちのタレントとは何でしょうか?
このタレント才能といいますのは、神の国でのタレント、才能、神の国に必要な才能ということになります。先ほど、命(その人にしかできない、そのひとらしい生活、暮らし)であると言いましたが、自分の生を考えますし、どうもわたしらしい自分を破壊する性質が自分に入り込んでいるのが、自分でも分かってきました。それが、罪というものです。「死に至る病、それは罪だ」とキルケゴールはいいましたが、この罪が、自分らしさを自分らしからなくする物だと最近、分かってきました。たとえば、わたし、職場に行っていますが、休む時があります。葬式とか家の都合とかで休みますが、そういうときは、すみませんと言ったりしますが、まあ、許されるだろうと思って、職場に行っても元気に声も顔も目つきも明かるんですね。しかし、その遅刻がさぼりだったときですね。ちょっとやるきなしになって、夜更かしして、酒飲んだりしてですね、もう、職場に行きたくなくなって、休んだ場合。これは、職場に行っても、罰が悪い。さぼりですから、許される口実がない。これは苦しいんですね。職場に行っても、みんなから、さぼりだろうと、言われているんじゃないかと思われているんじゃないかと被害妄想まで出てくるんです。もう、そこは自分にとっては苦しみの場、地獄になっていくんです。このとき、タレント、職場での仕事を神様から与えられたタレントだったとすると、そのタレントも十分に発揮されなくなる状態になります。こういうことが続くと職場を解雇されるということになり、持っていないものは持っているものまで取り上げられる状態になると思うのです。つまり、さぼろうと思って職場へいっても、苦痛でしかない、さらに解雇され、そこから得られていあ給料や人間関係までも失う、最悪の状態、暗闇で歯ぎしりすることになると思います。職場に行くときは、仕事をするぞ、という気持ちが大事だということです。さぼるぞ、という気持ちではなくですね。そうすることで、職場にいって快適に仕事ができますし、もちろん、猜疑心などなくてすみます。給料も得られ、人間関係にも良好な関係が生まれ、楽しい会話ができる状態にもあり、仕事をするという行為に加え、心地よさや、良好な人間関係など持っているものに加え、そのほかの持っていないものまで与えられることになるわけです。

【タラント=霊的賜物】
さて、聖書にはこの一人ひとりに与えられている賜物については、霊的賜物として紹介している場があります。霊的、ということは、神の国のことを想定したということです。コリント信徒への手紙第二12章27節~31節ですが、以下のようにあります。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行うもの、その次に病気を癒す賜物を持つ者、援助するもの、管理するもの、異言を語るものなどです。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行うものであろうか。皆が異言を語るものであろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。」とそれぞれ役割があるといいつつ、もっと、大きなもの、愛を求めなさい、とパウロは語ります。

さらに、ガラテヤ信徒の手紙5章16節~26節には、
わたしが言いたいのはこういうことです。霊の導きによって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは霊に反し、霊の望むところは、肉に反しているからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法のもとにはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他この類のものです。以前も言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行うものは、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を情欲や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従っていきているなら、霊の導きに従って前進しましょう。うぬぼれて互いに挑みあったりねたみあったりするのはやめましょう。」とあります。
人に与えられた賜物というのはいろいろあるということですが、そういう賜物をを姦淫やわいせつ好色や偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、怒り、利己心、不和などそういうものを生み出すように用いてはいけない、与えられた賜物をそのような肉の欲望や情欲を目的としたり、動機としてはならない、そのような場合は、神の国にはならない、おそらく、死や破壊が生じるということでしょう。一方、愛、喜び、平和、親切、善意、誠実、節制などを目的にしたり、あるいは、動機にした場合、与えられた賜物は神の国に生きるいきいきとした命となり、神の国を創造し続ける、とでも言いたいように私は受け取っています。

前に私はタラント、才能というのは、その人がその人らしく生きることだといいました。そして、その人がその人らしく生きるとは、神の国に生きて初めて実現するということではないかと提案しました。そして、パウロ書簡から、神の国にいるにはどのような状態が必用なのかを考えてみました。結論として愛、喜び、平和、親切、善意、誠実、節制などを目的にしたり、あるいは、動機にした場合、そえぞれに与えられた賜物は、神の国に生きるいきいきとした命となり、神の国を創造し続けることができる、というように私なりに結論づけました。これは、実際やってみてわかることです。罪びとの世ですが、神の国は完成していませんが、キリスト者には神の国に今入り、垣間見ることができる霊的体験をすることができます。それが、自分らしく生きたときであり、霊の結ぶ実である愛、喜び、平和、寛容、親切、誠実、柔和、節制を目的にあるいは動機に自分に与えられた賜物を用いた時に神の国にいるということをパウロは実感していたらしいですし、私の信仰体験からもその通りと言えることだと思います。

みなさん、それぞれ神様から与えらえた命を、神の国のために用いましょう。その時、自分らしさが現れ、みなさんの命が喜びと感謝に満たされると思っています。

おいのりいたします。