創世記39:1-23、ローマ8:28 説教題:すべては益となる 旧約聖書には罪を犯す愚かな人間の様相を描きながら、その中で、神の言いつけや御心を守っていく人が、いかに周囲を、本来的な生活を送れるように、恵が与えられていくかが示されている書でもあります。その中に、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセなどがおりますが、このヨセフほど世のため人のためになった方はいないと思います。友達になるならヨセフのような人だといいですよ。とにかく彼のそばにいるといことがおこるし、何かとても天国にでもいるような気になるんじゃないでしょうか。そういう人って希少ですけど、いるもんですね。病院に入院したり、通ったりすると、分かるでしょうが、そこには、必ず、天使のような看護師さんがいるもんですね。ああ、この人ならまかせても大丈夫だと言うような人ですね。優しい人、いやす人という表現がいいかどうか、わありませんが、とにかく、いてもらって、助かったと思える方々です。それが、どんな病院にいってもいるんです。施設でも同じで、係ってもらって、助かったと思える介護員はどこにでも必ずいるんですね。不思議な話ですけど。もちろん、普通の人もいますけどもですね。このヨセフはそういう能力、一緒にいると、なんか人を安心させてくれると言うか、幸せにしてくれるといいますか、係ってもらって助かった、と思えるような感じの人だったと私は思います。今日はそのヨセフのお話です。このヨセフがなぜ関る人々をすべて恵まれていくように出来るのか、今日はその点を探り、わたしたちの暮らしにいかしていきたいものと思います。 ヨセフはヤコブの子どもです。ヤコブの妻2人(レアとラケル)と二人の妾(ジルパとビルハ)の息子が12人います。下から2番目がヨセフです。複雑な家族ですね。そのヨセフは父親のヤコブから溺愛されており、容姿も良く、管理能力に長け、リーダー的素養があったようです。ヨセフは、家族の支配者になるという夢を神様からみせられました。家族にそれを言いふらしてしまい、兄弟から妬みを買い殺されそうになります。反対する兄弟もいて、穴に落とされてしまい、兄弟がヨセフをエジプトに売ろうと相談している間にひょっとしたことからメディアン人に拾い上げあれ、エジプトに売られてしまいました。父ヤコブには野獣に食われた、とうそをつきました。 さて、そのエジプトに売られて言ったヨセフの話です。 本日の創世記には、「神が共おられた」というヨセフという人がエジプトの王ファラオの宮廷の役人侍従長ポテファルの奴隷になったときのことが書かれています。ヨセフはその力量を主人ポテファルから認められ、奴隷の身分であるにも関わらず、家の財産すべての管理を任せられるようになります。主人の食べるものは別でした。これは、エジプト人はヘブライ人の奴隷との食事は一緒にしないことになっていたからかもしれません(43章32節)。そうしているうちにその家のポテファルの妻はヨセフと床を共にしようとヨセフを毎日誘うようになりますが、ヨセフはそれを断り続けます。業を煮やしたポテファルの妻は夫不在の時、ヨセフの服を掴み、「私の床に入りなさい」と迫ります。ヨセフは服を彼女の手に残し、逃げてしまいました。ヨセウの服は奴隷の服でワンピースみたいな感じで首からまとうような服です。スッポンポンになって逃げていってしまったかもしれません。しかし、このことによって奴隷の服を脱ぐことができたヨセフの暮らしが始まることになることは神様しか知らないのです!悔しかったのでしょう、ポテファルの妻はポテファルニにヨセフが自分を強姦しそうになったとうそをつき、ヨセフは囚人の監獄に入れられてしまいます。しかし、そこでもヨセフは監守長に認められ、監獄の囚人をヨセフが任せられ、獄中の人がすることはすべてヨセフが取り仕切るようになります。ここまでが今日の創世記の話ですが、後ヨセフはエジプトの王ファラオに夢を解きエジプトの飢饉とその対策を提言します。そのことがエジプトの王ファラオに認められて、実質上のエジプトの支配者になります。さらに、ヨセフの家族もカナンの地にいて飢饉に遭いますが、エジプトに下っていき、ヨセフの配慮で助かります。ヨセフはこのように自分が周囲からパワーハラスメントのような不条理な扱いを受けながらも、周囲に恵をもたらしていきました。エジプトの奴隷であった彼が、エジプトの支配者になり、飢饉からエジプトを救いました。神の御心に従って歩んだ、特にポテファルの妻の誘惑に乗らなかった事が、重要だったのではないかと思っています。 本日のローマ信徒への手紙の箇所は、「神 を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださること を、私たちは知っています。」です。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って目された者たちには、万物が益となるように共に働くということを、わたしたちはしっています。」 このことばはすごいことばです。これは誰に呼びかけられたことばですか。神を愛する人々です。神を愛する人々とは、わたしたち信仰者のことです。わたしたちのためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださるといいます。「益」とはこの世のことです。この世を「益」とする、こと。これはどういう意味でしょうか?良い方向へ向く、ということです。万物が良い方向へ向くということです。私たちがいるからこの世の万物は良い方向へと向かうということです。今日の創世記の場合はヨセフという容姿端麗、夢を説く特殊能力があり、組織管理に長けているような方ならまあそういうこともあろうかと思います。わたしみたいな信仰者でもすべてを良い方向へ向かわせているのかどうか、疑問です。 しかし、すべては益となるのでしょう。 そうであれば、なんと、幸いなことでしょう。このままで言い訳がありません。悪から離れ善を行いたく思うではありませんか。 信仰者として何もしなくていいのだろうか?と思っていますときに、内村鑑三の後世への最大遺物の著書を思い出しました。 「それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。もし今までのエライ人の事業をわれわれが考えてみますときに、あるいはエライ文学者の事業を考えてみますときに、その人の書いた本、その人の遺した事業はエライものでございますが、しかしその人の生涯に較(くら)べたときには実に小さい遺物だろうと思います。パウロの書翰(しょかん)は実に有益な書翰でありますけれども、しかしこれをパウロの生涯に較べたときには価値のはなはだ少いものではないかと思う。パウロ彼自身はこのパウロの書いたロマ書や、ガラテヤ人に贈った書翰よりもエライ者であると思います。」 だれにでもできる勇ましい高尚なる生涯 私は、しょっちゅう失敗し、悩み、上手くいかないことにぶつかり、疲れ、落胆し、焦りもし、すべてがダメだと思うことがあります。また、他人にダメだ、といわれる事もあります。「下の下になってしまった」とか「全部ダメじゃん」等と言われたこともあります。これはきついことです。しかし、本日の聖書を読む限り、「すべてが益になる」というのです。「すべて」とは「我らの上に起こりうる一切を指す」といいます(内村鑑三)。自分がダメであることも含まっているのです。 本当だろうか?と思わざるを得ませんが、本当らしいです。信仰者はそれを信じ、どんな自分でも、他人でも、必ず「益」(世のため人のため)になることを信じることができるのだと思います。そして、だれにでもできる勇ましい高尚なる生涯、を願わくば送っていきたいと思います。 皆様の祝福を祈ります。