聖書 創世記37章1~11節、ルカによる福音書2章41~52節 説教 平和の共同体の心得「主が与える夢を心に納め」 最近、角田美代子と言う人が親族や知人を自分の言いなりにさせて、言うことを聞かない者は次々に殺してしまうような事件がありました。日本人の現代人の特徴は、「自己実現」にあり、己が神のようになることに価値を見出す社会になったような気がします。ここでは個々が神であり、尊ばれ、拠り所とされるのでしょう。そして、実に多様な人がいるため、さまざまな神が出現する時代ともいえます。極めて自己中心的、自己愛的、善意や思いやりに重き価値を置けない人格障がいともいわれる人々も跋扈しやすい、多様な価値が混在する社会になりました。そして、一方、どんな価値を求めていったらいいのか迷う人も多く出てきていると思います。更に、自分が神になれないと思ったときの不安も付きまとい、不安の多い社会でもありましょう。従って、わたしたちは、鬱になったり、心身を病んだり、自殺したり、さてまた、自分を都合のいい他人の支配下においてみたりと、不安の解消にあくせくする者でもあると思います。今回の事件も、サイコパスと言われるような、人格障がいの人間が、不安や恐怖に付け込み、人の命を傷つけ、奪うまでしても自分の思い通りに他人を支配した的を外れた生き方=罪を犯したことが原因でありましょう。恐ろしさにたじろいでしまいます。そして、私のことを考てみても、十字架につけてイエスを殺した私であるゆえ、恐ろしいかな、サイコパスかもしれない角田と同じような者とも思えなくもありません。 北朝鮮の問題、原発の問題、貧困の問題、人々の争い、いつまでも経っても変わらないような支配者と被支配者の関係、存在、私自身のありようを考えても、自分はこれで生きていけるのだろうか、と思う。 しかし、聖書には、愛なる神が、人間を導いて止まないことが示されています。人間がこれからどう生きたらよいか分からず、困難を覚えるときでも、必ず、人間の世界に介入し、助けてくれた、そういう歴史を聖書から知ることができます。時代時代にいろんな形で具体的に神が介入してくることが書かれています。今日の旧約聖書では、ヨセフという人に主からの夢を見させます。12人いた兄弟の下から番目のヨセフという弟が兄や兄弟父親母親をすべて支配するという夢でした。これは、兄や父母からみれば、不届きならぬことです。しかし、ヨセフの父親はその話しを聞き、心に留めました。 新約聖書ではイエスが12歳のとき、神殿の境内で学者達と対等に、いやむしろ、学者たちより、優れた感覚で話していた事でしょう。例えば、教会学校の子どもはよく質問しますよね。なんで人間を罪人に作ったんだ、全知全能の神なら、最初から正しい人に作ればよい物を」とか、ですね。また、イエスの十字架を知った子どもがいいました。「イエスは自殺したの?」 そういうことに大人は答えられなくなっている人が多いんじゃないでしょうか。「そんな質問はするもんじゃない」とか「神様のなさる事に文句を言うもんじゃない」とかいろいろ逃げるんじゃないか思います。「神様なんだから、自殺ではない、御心を果たした立派な行為だったんだ」とか立派な行為という風に神様を美化したり、してしまいませんか? イエスは子供であるゆえ、律法学者を超える真理についてのありとりをすることができたのではないでしょうか。この話は、イエスだけの話ではなく、普通の子どもなら誰でもそうなんだということを示しているのかもしれません。大人も子ども一緒に疑問に思ってみたらいと思いますけど。一緒に考えていけばいいと思います。イエスが律法学者と話していたことあ、人の将来の救いとか、神についての話だったのでしょう。これも意外な夢みたいなことだったのでしょう。しかし、母マリアは心に納めておきました。 人間の心の問題、外的な環境が、どんな状態にあろうとも、どんな人にも神様から与えられた具体的な夢があるはずです。それは、自分がこうしたいという自己実現の夢とは異なる夢かもしれません。その夢に気付き、ヤコブやマリアのように心に納めておきたいものです。いつか、神様が不思議な方法で開花させてくださると思います。 私たちが暮しておる中、震災があったり、放射能を含む、公害があったり、人間関係の問題があったり、自分自身の弱さに躓いたり、困難を感じることもります。そういうときに、大事なのは、自分には何か、と考えますと、「やる気」なんです。「意欲」といいますか、これをやろうとする意欲、やる気、これがあれば、環境がどうでも、自分は大丈夫なんです。これが、最近、私に与えられている、神様からのメッセージです。ですから、自分はあんまり立派だとは思ったりしません、それよりも、立派になるようにやる気を持ちたいのです。私は、教会の牧師では無く、いまだ、集会の牧師である事を、格好悪い牧師かもしれないと思いますが、それと同時に、大きくすることに意欲を持ってやりたいと思います。かっこいい牧師になることを、やる気になって進んでいければなあと思います。今の私にとってのやる気は、どんな環境でも自分が幸いになれる、薬みたいな物です。ですから、最近は快眠、快食、快便になるような暮らしに心がけています。もちろん、祈りは欠かせませんが。 夢のような話と言えば、主、イエスキリストは十字架によって、こんないいかげんな自分の罪の赦しをあたえて。永遠に生きる者としてくださった。この十字架は罪に利く薬です。 罪を亡くす薬です。この十字架のメッセージも夢のような話です。そして、私たちは、復活したイエスの霊、聖霊と共に歩むことが出来、私たちがなくなっても、復活し、永遠に神と共に神の国を継ぐものとして永遠に生きることになるということも含めまして、まるで、夢のような話ではないでしょうか? その時その時、主が与える夢、メッセージ、これは、私たちの将来の救いというものに結びつくものですが、その夢、メッセージというものは、私たちの思いを超えたものであり、私たちの常識を超えた形で、生み出されると言う事を本日の聖書から読み問う事ができると思います。 救いのときには、その時には不安も消え、「死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章4節)と聖書は語っています。そのときのために、主は私たちに、夢のようなことを通して、あるいは、小さい子どもからのメッセージを通して、今、どうせよと、語りかけてくれているのではないでしょうか? それぞれの暮らしの中で主が与えてくれている自分たちへの夢について気づいていきたい者です。お祈りします。