創世記35章1~15節、ヨハネによる福音書4章19~24節
説教 平和の共同体の心得「神の指示に従う」

最近ではアルジェリアでテロがあり、アラブ人以外が人質にされたようで、日本人人質も17人中10人が犠牲になりました。その一人が南三陸町出身の人で、私が勤めている施設の利用者の同級生でした。歳祝いをするようだったらしいですが、残念なことになりました。犠牲者の冥福とご家族の慰めを祈ります。アルジェリアの問題が、自分の知人の話になってしまっています。最近は中国の軍艦からレーザーを受けたとかどうかという問題があり、小野寺五典防衛大臣がテレビに出て話していましたが、私の知り合いなものでうまくこたえられるかどうか、そっちの方が心配だったりしていたりしています。高校の一つ下でしてね、五典さんの同級生でズートルビっていうビートルズのコピーバンドがあるんですが、そのラブイブに一緒になって遊んでたりしてたんですけどね5・6年前にですね。同級生に五典さん国会議員になってすごいね、なんて、行ったら、「あんなのいいかげんだよ」ってわらっていましたが、まあ、そういうこで、中国のレーザーなんかより、五典ちゃんと答えろ、と祈っているわけです。

本日の創世記には、ヤコブにべテルに上ってそこに住み、祭壇を作れ、という神の指示があったことが記されています。
この神の指示あった時のヤコブの一行はどうだったかといいますと、地域の人々を大量に殺害した、地元の人から見れば、今でいう。テロ攻撃でもされたような状態だったのではなでしょうか? なぜ、ヤコブ一行はそういうことをしたかといいますと、34章にありますように、ディナという、ヤコブの娘をシケム(強姦し、その後、恋し、愛し、結婚することまで考えていたが、)汚されたと思った兄弟による復讐だったのです。その復讐たるや、シケムの町のすべての成人男子を殺し、家畜を奪い、女子供を捕虜にしたと聖書にあます。なんとも残酷な話です。ヤコブの策としては、これをどう収めるかは、聖書にははっきりと書かれていませんが、もしかしたら、その地元のシケムと結婚させて、その土地の権利を手に入れていたことかもしれません。ことは大問題に発展しヤコブ一行はこの地域には住める状態ではなくなりました。地域のカナン人やぺリジ人というシケム周辺の「土地の人々から憎まれ、のけ者にされてしまった(34章20節)」とヤコブが語ります。シケムの住人の親戚などは周辺にいたでしょうから、この虐殺事件に恨みつらみを持ち、仇を討ってやろうと思う人々がいるに決まっています。アルジェリアのテロで知人の同級生が無くなってしまったことについて本当にテロ集団にも、テロを人質と一緒に僕滅したというアルジェリアの戦略にも、納得いかない自分がいますもの、ヤコブ一行も、テロなのか、アルジェリアなのか、シケム周辺に住んでいる人々からみたら、人命を大事にしない、納得できない、一緒には住みたくない人たちになってしまったことは確かでしょう。

しかし、神様はそういう悪人でも関わらず、語りかけてくれるのです。放ってはおかないのです。べテルへ行って住み、祭壇を作りなさい、というのです。べテルはヤコブがエサウから逃げていく途中、夢で天につながる梯子を夢に見た場所です。(28章)。横たわっている土地をヤコブの子孫に与え、守り、この土地(べテル)に連れ帰るという神のお告げがあったとこおです、石で記念碑を立て、神の家と名付けたところです。
ヤコブ一行はべテルで祭壇を築き、やっと、落ち付いた暮らしができたようです。リベカの乳母も丁寧な葬儀が出来たようですから。埋葬が丁寧にできるということはそれだけ平和で余裕があるということでしょう。乳母が葬られたということがかかれていうということは重要です。乳母さえもその生涯を大事にされたということでしょう。ここで、記念碑が建てられたことが書かれていますが、これも、平和の徴だと思います。祭壇とは離れた場所に石の柱で作ったようです。そして、葡萄酒を注ぎかけたり、油を注ぎかけたりしたようです。大分、暮らしにも余裕があったのではないでしょうか?
神の指示に従うとは、このような平和な暮らしを送ることとして、しかも、争いが一触即発の状態で起こりうるときの神の指示と祭壇を築く行為であり、平和な暮らし、子孫繁栄を願う暮らしであったのではなかったんでしょうか。

さて、本日の新約聖書は、祭壇で行われる礼拝についてのイエスの解説が書かれています。
本日のヨハネの福音書には、霊と真理をもって礼拝するように神が求めていることが記されています。ところがこの礼拝の説明をしえいるのが、サマリア人というちょっとユダヤ教とは違った宗教でユダヤ教に対抗しているような宗教だったようです。キリスト教でいうとエホバとか統一教会とかモルモンでしょうか?あるいは反キリスト教を掲げるイスラム教のような感じでしょうか?とにかく、付き合いがなかった、毛嫌いしていたようです。(末巻用語解説参照)。イエスはその異端みたいな宗派の人と話をしているんです。しかも、礼拝のことについてですね。礼拝は「霊と真理をもって礼拝するんですよ」っていう感じですよね。「あんたの信じている礼拝は間違ているなんて言わない。そして会話をしていきます。そして、イエスのそばに多くのサマリア人が集まってくるんです。イエスを救い主と信じるようになるんです。サマリア人はイエスをサマリア地方に2日間泊まらせるんです。弟子たちも一緒だったと思いますよ。そこで食べたり飲んだり、風呂に入ったり、救い主の話をしたり、共に、食ったり、飲んだり、話をしたり、生活をしたんだと思います。
「霊と真理を持って礼拝すること」これをイエスはここでしめしたのではなでしょうか。
「今がその時である」と言っていることですし。
それは、イエスと共に暮らすということです。一緒に暮らす人は、異端と呼ばれようと、関係はない。否、異端ならなおさらよろしい。異端と呼ばれる人とも、イエスと共に食べ、飲み、語り合い、風呂に入り、寝て、暮らすこと、それが、礼拝であるということを語っていうのではないでしょうか?
宗教的な違いで、交わりを絶ってしまう人々はいないでしょうか?
あるいは敵対する状況にあり、物騒な状況になったりしてはいなでしょうか。

そういうとき、神様からの指示を聞こうではありませんか。
ヤコブはべテルに行け、そこで、祭壇を築け、と言われました。ベエルとは神の家のことです。神が住んでいるところです。教会や信じる者の逢う舞う場所です。そこでおこなわえる礼拝は、イエスと共に,食べ、飲み、イエスのことばを聞くことです。
イエスは何といっていうでしょうか? 争え、戦え、戦争しろ、といっているでしょうか?


わたしには、食べたり、飲んだり、人の死を懇ろに葬ったり、祭壇を築いて礼拝したり、歳祝いの会をやったり、ズートルビのライブやったり、知人の大臣が上手にインタビューに答えることができるといいなあと祈れたり、だれもが、そういう平和な暮らしが、できるように、テロの対応を考えよ、中国との外交を考えよ、とイエスが言っているように思えてなりません。

そういう指示に私たちは、私たちも、テロリストも、アルジェリアの人々も、中国の人々も、世界中どんな人も、従うべきなのではないでしょうか?
35章4節、人々は持っていた外国のすべての神々と、着けていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはこれをシケムの近くにある樫の木の下に埋めた。とあります。
これは、「平和な暮らしを送れ」という指示のみに従ったということでしょう。

暮らしの中で、特に、暮らしが崩壊されそうなときこそ、私たちに今与えられている神の指示とは何か、聖書に示されている出来事をヒントに、また、神様のことばを聞くようにして見つけていき、その指示に従っていきたいものです。

お祈りします。