創世記34章1~31節、マルコによる福音書1章1~8節
平和の共同体の心得「悔い改める」

未解決事件file2「オーム真理教」と言うNHKの番組を7月に見たのですが、彼らは、宗教的国家を実現しようとして、結局70億人を殺すサリンを製造し、全世界をオーム信者だけにしてしまうという方法を取ったようです。これは、自分たちの手で平和的や理想的社会を実現しようと思ったときの、複雑で厄介な現実の中での手っ取り早い方法といえば、そういうことかもしれません。ヒットラーの優生思想も、障害者や優秀でない人(ユダヤ人を含む)は排除する、というようなホロコースト(大量虐殺)を生み出す結果になってしまいました。現在でも、シリアの内紛、世界の先進国の借金の問題、社会保障の問題、自殺やいじめの問題、原発の問題、生活苦、災害被害、政治的リーダーの問題、脳死、尊厳死、延命、出生前診断の問題などいろいろな難問があり、未解決なことが多く見当たります。そして、どんどん増えていくようにも思います。

本日の創世記は、解決出来ない人間の諸問題の一例を示しているようです。神に選ばれ、神に礼拝を捧げる、ヤコブの民族、イスラエルの神の民であるにもかかわらず、平和を実現するための難問に出くわしてしまいます。ヤコブの娘のディナが,シケムという町の男に娼婦のように扱われ、辱め、嫌がらせ、暴力を受けたのでは、仕返ししたくなるのは分かるような気がします。しかし、その仕返しが、犯人の住むシケムの町の男すべてを殺し、女と子どもをすべて捕虜にしては、問題がこじれる一方です。

創世記のここで、神を信仰し、礼拝する民は、未解決の問題の中で生きざるを得ないということを、教えてくれているのではないでしょうか。人間は問題を解決しようとして頑張る、努力する。しかし、そうすればそうするほど、上手くいかない問題に出会う。旧約聖書のこの箇所はそういうことを私たちに伝えてくれているのではないでしょうか。イスラエルの神を信じる信仰によっても、もちろん人間の智恵によっても、未解決の問題の中でしか、いかざるを得ない、そのようなことを本日の創世記は語ってくれているのではないでしょうか。

人間は、神を十字架にまでつける罪人です。

その中で、私たちはどう生きるべきでしょうか?・・・その答えは「悔い改めて生きる」です。今日のマルコによる福音書の箇所はそのことを教えてくれます。やがて神が平和を与えてくれることを信じて、すべて、よくしてくれることを信じて、日々悔い改めの暮らしを送っていきたいと思います。