創世記33章1~20節、ルカによる福音書15章11~24節
平和の共同体の心得「赦されて歩む」

今年9月のことですが、施設の職員で、私にろくも挨拶もせず、気に入った人としか、話をせず、施設である利用者の言う事をきかず、自分の思うようにしか、しなかった人がおりまして、介護員にふさわしくないといわれていた人(私もそう思っていた)人が職場をやめるということになりました。それをきいてホッとした思いにいる自分を思ったとき、なんと、わたしは人を排除(exclude)する人間ではないかとも思いました。牧師と言いながらなんと慈悲のない者、人には、敵を愛しないさいと、教えるのに、自分では、正義や慈悲も誠実さもない人間ではないかと、偽善者(a hypocrite)ではないかとも思ってしまいます。その人は、プリントを、全職員に御礼と言うことでくださったし、利用者にも全員ハンカチをプレゼントされました。利用者からもありがとうと御礼の絵画をプレゼントされたようです。次の仕事に就いたのですが、その人に何か申し訳ないような気がしてなりません。次の仕事があるようですが、何か罰の悪さを感じるものです。

今日の聖書の箇所は、人が人に犯した罪が赦される出来事が書かれています。ヤコブとその兄エサウとの和解(仲直り)が示されています。(ここの主人公はエサウだと思います。)
ヤコブは兄のかかとをつかんででてきたことに象徴されるように、人の権利を横取りする、不届きものです。長男から長男の権利を奪い、父親からの祝福をも奪ってしまった、詐欺師と同じような者です。
エサウはヤコブを殺そうさえ思った人です。そのエサウと会わなければいけなくなりました。神様から、カナンの地へもどれと言う指示が、あったからです。自分で和解しようとおもったわけではないのです。神様の指示に従っていったら、敵対する兄と会わなければならなかったのです。
この場面はとてもスリリングです。ヤコブはヤコブで必死にこの場をすり抜けよう、生き抜けようとします。いくら神が守るといわれても、そうせざるを得ない、素通りは出来ないところが、現実を生きる、自分と、共通するところです。ヤコブの取った、方法は、4つの群に分けた、山羊、羊、乳らくだ、牛、ロバの贈り物を贈る。そして、エサウをご主人様と呼ぶことなどです。
そして、今日の聖書の箇所では、400人を引き連れてくるエサウの姿。これは、敵対の証拠でしょう。それを見たエサウは、赦されるべき、最善の方法をとっていきます。『ヤコブは子供達をそれぞれ、レアとラケルと二人の側めとに分け、側めとその子供たちを前に、レアとその子ども達をその後に、ラケルとヨセフを最後においた。ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに7度地にひれ伏した』とあります。これは、臣下が王に赦しを得るための当時の習慣であったという人もいます。
7度ひれ伏すとは、神に礼拝するのと同じような行為です。そして、ヤコブはエサウを「ご主人様」と呼び、10節では「兄上のお顔は、私には神の御顔のように見えます」とさえ言うのです。
ヤコブにすれば恥も外聞もありません。兄から赦されるために、兄の好意を得るために、全身全霊を込めたという感じでしょうか。そして、結果は、ヤコブとエサウの和解は可能となったのです。4節、エサウは走りよってエサウを迎え、抱き絞め、首を抱えて口付けし、共に泣いた。

エサウはエドム地方の先祖となり、今で言う、パレスチナやイラン・イラクなどアラブ系の人々になっていきます。

赦したのは、イエスの系図にあるユダヤ民族、イスラエル民族ではなく、パレスチナ、イラン・イラクの今で言うアラブ系、あるいは、ユダヤ、キリスト教とは無関係な人々であったと考えることが出来るのでしょうか?

新約聖書の中に出てくるたとえ話も、「ある親子」です。これは大勢の群集に向かって話されています。神様が、ある親、になっているような感じです。そして、親から見離されて当然と思う人々にも、放蕩息子への祝福を認めるようにと、親が諭します。
これは、現実の今であっても、どんな人たちにも、生きていくには赦しが必要であると言うこと、神の御心を果たすためにも、啓示を受けた人以外の人からも(例エサウのような人からも)、赦されて歩むことが必要で、そのようなことを、私たちの神様が、(エル・エロへ・イスラエル)「神はイスラエルの神(といいつつ、イスラエル以外の人々にも関わり、用いる)」が成し遂げてくれるということを示してくれているとも解釈できます。

クリスチャン以外の方々からも赦されて、和解や平和という御心が進んでる事にも、気づかされるものです。これは、現実を見、信仰を持ち、聖書を読み進めることで気づかされるのですのですが、そこに平和の和解の秘儀(神は、クリスチャン以外の方々がクリスチャンをも赦してくれるようにするということ)をも見出すことができるのではないでしょうか?

上記の辞めていった職員にも私たちが赦していたら辞めず済んだのかもしれません。否、もしかしてその職員に私たちが、すでに赦されていたのかもしれません。お祈りします。