聖書 創世記32章23節~33節 マタイによる福音書26章36節~46節 説教「負ける神、支配できない神、しかし、共にいる神」 【神がオリンピックに参加したら】 昨年は、清水寺の和尚さんが一文字で世相を表す漢字を書きましたが、『金』でした。その理由の一つが、昨年のロンドンオリンピックでのメダル数が38個と過去最高だったためらしいです。気仙沼にも昨年は千田選手というフェンシングの選手が団体で2位ということでオリンピック銀メダルを取って、気仙沼の重大ニュースのトップになっていました。もし、神がオリンピックに参加したなら、金メダルでしょうか?いいえ、たぶん、予選最下位落ちでしょう。オリンピックは名誉とか祝福を勝ち取るために人間の最高の努力と知恵をもって戦っていると思います。金メダルや祝福を神様は私たちに下さる方だと思うからです。今日の創世記は、ヤボク川付近での出来事で、ヤコブと神との格闘を示しています。ヤコブは祝福を頂くために食い下がり、神が負けました。そして、本日のマタイによる福音書の箇所は、イエスが弟子たちに、起きて祈るように言いますが、弟子たちは起きていられない、眠くて、言う事を聞けない、もう、10数時間後に十字架にかかり、死ぬ運命にあるイエス、神であり人でもあると言われたイエスが、教祖としての結果を出せなかった、その弟子達への指導力のなさに終わってしまった場面でもあります。 【負ける神、支配できない神】 このように、神は、祝福をかけて格闘した場合、負ける神でもありました。 また、新約聖書をみると、イエスの存命中は、私たちの信仰をも導く事ができない神でした。彼は、私たちのいいなりになり、人に仕え、人の支配に甘んじ、いやいやながら私たちの罪の贖罪の生け贄となり、十字架にかかり、世を去った人でした。そして、そういう本質をもった神が復活し、聖霊となり、今も私たちと共にいるということを聖書は語り、信仰を受け継いだ先人、先達は信じ、私も信じるものです。私は、こうしたイエスを主とする、神とする信仰者です。明治時代日本の新しい国家を作ってきた大久保利通は西欧のキリスト教を、十字架についた弱い、敗北した神を信じるおかしな信仰と語り、日本の神道や仏教のすぐれている事を主張したようです。確かに、イエスはこの世の中では、事業でも弟子教育でも、もちろん政治的にも支配者できない人でした。むしろ、それらの失敗者でした。しかし、私は、今、彼を信じ、生きています。そして、守られて、彼から、祝福をいただいて、喜びと、意欲をもち、復活という奇跡で勝利した神と共に生きている! この、恵み、祝福を受けて歩んでいると思う自分は、なぜか、どうしても、否定できないのです。 【聖書編集者も迷った?】 聖書の編集者は聖書の記述するとき、本日のような言い伝えを入れるときにとても迷ったのではないでしょうか?こんな弱々しい神の伝承を残していいものかどうかと・・・しかし、聖書記者はその記事を自分の信仰体験から間違いない、あったほうがよいと判断したのだと思います。本日の聖書の箇所は、人間の罪、自分の罪と一人出会い、格闘し、新しくされる、悔い改めと、罪を負う者の新しい人間の出発と捉えることもできます。しかし、そこに描かれている神はかっこいい神ではありません。格闘すれば負け、祈るようにと弟子に言えば誰一人として従えない、居眠りするような弟子であったし、滑稽に見えてしまう、真面目だけど能力や結果の出せない神が描かれています。 【神様が与える「救い」とは】 さて、神様の与える救いとはどんなものか、ここで、考えていきたいと思います。人間の救いとは、財産を得、妻子を得、多くの方々の上に立つ指導者、支配者になることではないということをここでは示されているように思います。 神様が与える救いとは、神の指示に従うように示された旧約聖書、十字架による罪の許しが示された新約聖書、聖霊により示されている今の私たち、わたしはこのすべてが救いなのではないのかと思います。人間として人の上にたつ指導者や支配者として結果を出す事ではない。結果は出せなくともよい。時に神が支配したり、あるいは、時には逆に人間に勝負で負けたり、あるいは、時に神は人間を作った事を後悔すらし、人に敬われたり、逆に嫌われたり、大事にされたり、逆に殺されたりしながらも、神が、私たちと共にいることの方が重要で、これこそ「救い」なのだと語っているのではないでしょうか。聖書記者はそういうことを感じ、体験したのではないでしょうか。 【共にいることの「救い」】 そばにいるだけで安心と言う人はいるように思いますね。私は弱い人間なので、そういう多くの人に支えられて生きてきています。失敗しても、その人なら大丈夫と言う人がいますね。受容的な人ですね。私からすれば母親みたいな存在ですかね。自分も母親も結果についてはどうすることもできないんです。私もこういう体(身体障がい者)なんで、家の仕事とかあまりできません。また、免停にもなってしまったこともあります。。年次休暇がなくなって、欠勤で給料が引かれたりしてしまったり、結果が出せないんですね、私。母親は老齢になる、結婚もせずに一人者の私を思うと不憫でしょうがないわけです。とにかく結果が出せない私ですから。しかし、母親は、朝ドラの『純と愛』が始まると、「ほら、始まったよ」と日常の暮らしを送っていく、そういう、共に生きる生き方というのがあると思います。そして、母親意外にも、ときとして、結果が出ようが出まいが、一緒にいきてくれる人もいます。それは一時的かもしれませんね。どんな人でも、どんな罪人でも共に生きてくれる、その最たる人がイエスであると思います。イエスは一時的ではありません。永遠です。 【教会では私はどうか?】 教会とはイエスと出会った人たちによって形作られていく、イエスキリストの体であり、他者と共に生きることを祈り、共に生きることを相違工夫し、その実践をなせる場であると思います。教会に来ている方々は、教会に集うみんなと共に生きるにはどうしたらよいのだろうということを考えていってみてはいかがでしょうか。私も共同体形成でちょっと思うことがあります。飲み食いやカラオケみたいなお楽しみを目的とした会は飽きが来て続きません。ついには行きたくなくなります。それより、勉強会のようなことの方が私は続けられます。教会では、礼拝や説教で、共に生きることのインスピレーションやコツ、ことばが与えられるといいと思います。もちろん、癒しや奇跡を実感できる場でもあればいいと思います。とにもかくにも、共に生きていくことの希望が与えられるならいいと思います。しかし、結果を出せない私です。皆様には私のような者が協力牧師としていることで、誠にご迷惑をおかけしているものと思い、ただただ悔い改め、主に委ねるものです。また、こんないたらない協力牧師を置いて下さり感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございます。 【施設にいる信仰者】 私の勤めている施設に、ある人がいるのですが、その方を紹介して説教を終わりにします。その人は職員を待っているのです。いつも、待っています。12年以上同じように待っています。特に夜勤の3名が気になるらしいのです。そして、職員が来ると「だれだれさん、きた~~」と喜びの声を上げます。このような暮らしは、神様を待ち、神と共にいることを喜ぶ私たちの暮らしのモデルなのではないかと思います。私たちは、共に神様がいるということを聞きながら、彼女ほど神様を待ち、彼女のように喜んでいるでしょうか? いまか、いまかと待っていて、教会に来てイエス様と出会った、イエス様を信じる人と出会った、うれしい~!と思っているでしょうか?私たちに本当に必要な人はイエスなのです。彼女から、イエスキリストを信じ待ち、出会った時に喜ぶことを学ぶ思いです。信仰者は彼女のようになれると良いと思いました。 【共にいてくださるイエスに気づいて歩もう】 結果はどうあれ、支配する、しないはどうあれ、神様が私たちと共にいてくださることの奇跡、恵み、祝福に気づいていきたいと思います。今年も一年、この闇のような世の中に主イエスが光を与えてくれることを信じ、そのときを待ち続け、あるいは、すでに奇跡として共にいることに気づきつつ歩むこの一年でありたいものです。 (2013年1月6日柴宿教会礼拝説教より)