創世記32章2~22節、ヨハネによる福音書1章14~19節 題 平和の共同体の心得「慈しみと誠(恵みと真理)」 慈しみと誠を神は私たちに与える。 恵みと真理を神は私たちに与える。 どんな人間にも、どんな環境にあっても、神様は「慈しみと誠」(恵みと真理)を与える。神様から一方的に与える、と、本日の創世記とヨハネの福音書は語っています。慈しみや恵みとうのは、慈悲とか、祝福、食料や財産など生きることの助けとかに解釈されます。「誠・真理」というのは、「いつどんなときでも変わることのない正しい道・法則・現象」をいいます。 恵をたくさん受けることは、お金や食べ物、快適な住居、フィットする着物などなど、笑顔になって喜びますが、真理に従うとか、誠に生きる、誠実に生きるとなると、ちょっと勘弁させて、好き勝手にさせて、とわがままになってしまう事が多い非常にいい加減な者だと思います。特に私は、講壇から、敵を愛せよ、といいながら、実際どうかと言いますと、職場に挨拶しない人がいれば、「なんだべ、あの人、俺さ、挨拶もしね、むかつく」と思ったり、「私の考えが間違っている、余計なこと言うな」と言うようように、せっかっく、私に低異言してくれる人に対しては、「あのひとおっかね、職場やめればいいのに」と思ったり、憎しみや排除の気持ちさえ持つ、非道な残酷な人間でもあることを認めざるを得ないものです。 本日の聖書の箇所は、神様から与えられる事柄を、「慈しみと誠」とか、「恵と真理」というように2つ対になって与えられると言う事が記されています。この2つセットになってるということが本日の注意していただきたい点です。 ヤコブとエサウの和解の準備 これは、エサウの周到な和解作戦ですが、全面降伏です。もってきたほとんどの財産を提供したんじゃないでしょうか?雌山羊200匹、雄山羊20匹、雌羊200匹、雄羊20匹、乳らくだ30頭とその子ども、雌牛40頭、雄牛10頭、雌ロバ20頭、雄ロバ10頭でした。 そして、エサウに初めに贈り物を見せる作戦を取り、更に、エサウを主人と呼び、自分を僕と呼ばせる、低姿勢、ひれ伏す姿勢で向かいます。 この事を計画する前に、ヤコブは祈ります(9-13節)。その前に、エサウの様子を偵察にいかせるのです。400人もお供を連れてくることが分かります。神の使者が現れて、「ここは神の陣営だ」ということを語るのす。ここの準備は神の声、指示(アドバイス)による者だということが考えられます。 このヤコブとエサウは最終的に和解に至るのですが、これは、奇跡物語として私は読みます。敵対する者同士に和解が生じたということを、神の関わりがあったからできたのだということを示している。また、それは、何もしないでできたのではなく、理性的に考えてもこれだけのことをすれば、許されるだろうということもあるのですが、それも、ヤコブさえを低くなるように変えた神が関わったことが、大きな和解の理由として上げられると受け止めています。 現代社会で、神に関わる、神の指示に従う、ことの中に、福祉とか介護・医療・教育活動が一つあると思います。時代は変わり、今、いたるところで介護施設があり、近くの交差点でも、ねんとかデイサービスセンターなと書かれたワゴン車が走っています。時代は変わっているなあと思っています。これは聖書的に見ればよく変わったことだと思います。 最も小さい者にすることはイエスにしたことである、幼子のような者を受け入れること、良きサマリヤ人のように自分の近くで倒れている人を助ける事、そういう神の指示、神の声に従っている行為のひとつとして捉えることができます。 私自身もこうして牧師をさせていただくことにより、いろいろ、み言葉にかかわる奇跡を体験させられているものです。私の家にいるもの3人ですが、最も、小さい者は叔母でしょう。この人は統合失調長、不安症で、ちょっととしたことで、むつけてしまいます。そして、パニックになって、ワーワー泣き出したり、こんなところいやだ、と言って飛び出したり、します。病院にもいってくすリももらってきています。礼拝も一緒にやるんですが、本当に失敗が多いんです。行動も遅いし、例えば、礼拝が始まったときに、トイレに行く、祈りをお願いしているんですが、毎回祈る事を忘れる、途中で、なんて祈るんだっけ?・・・となる。献金を任せれば袋からお金をばらばら落としてしまう。それから、献金のお金を書いてもらう役をやってもらっているんですが、昨日は、書くところを一番右からというのですが、結局、欄なら漏れてしまう。お金をしまう金庫を開けるのに、真ん中の大きなダイヤルを回すのに、ちいちゃな、ロックのためのダイアルを回して金庫をロックそうしてお金をしまわれなくしてしまったり、見ていていらつく、いらつく、よくもこんなに失敗する者だ、と関心さえするのです。こういうことを毎日見せられた同居も母も、本当に呆れたということ、相手して疲れたということを、よく語ります。聖書は、イエスは、このもっとも小さい者叔母を大切にしなさい、と語っているとわたしは受け止めています。できるだけ相対しようと思っています。母親ともミーティングをして対応の仕方を考えて実践しています。本人の好きなようにさせること、やらなかったり、パニックイは怠けているんじゃなくて、病気のためだと理解すること、などです。母親も心理的に落ち使いこともあり、もっとも、我々が労苦をできるだけ少なくして楽に暮せるのは本人に発病させないことだという今のところ結論に達しています。 昨日もパニックになり、夕食職準備しない。母は「うん、やりだっくねえがら」とかぶつぶつ。私はリスパダールを持って飲んでもらい、回復を待つ。 そうして、楽になってきた叔母が、今に来て言い出したこと。「なんでこうなったんべ。なんでこうなったんだべ」これは、「なぜ、私がこういう病気にかかる運命にあるんだろうか」ということです。「なぜ、私ではなく、あなたがその病を負ったのか」ということです。イザヤ書53-3にあるように、それは、そうかたる人が私たちの使えるべき神であるからだ。 わたしは、高校のときの国語の教科書のことばを思い出し語りました。 不条理を亡くすように、不条理に生きる人のためにいきるのが人類の目的だというように、昔の昔からそのような問いがあったんだと、そして、叔母のような人のために我々は生きているんだと言う事を話しました。 その前に、丁度、母親が作った天ぷらがどーんとおかれました。 今まで泣いていた叔母が、突然、「おいしそう」といった。「そうだおいしい」と言って私は笑った。おばも笑った。 わたしはいつも「誠・真理」については、いつも恐れを持つものです。誠の人間ではない、真理に従った人間ではない、と思っているからです。慈しみや恵みは、求めるけれども、「誠や真理」に従う事、自分に与えられる事については、ちょっと、お手柔らかに、いい加減にさせてください、と免除を期待しつつ、自分の義務を減らそうとするものです。物を買う時、負けてくれとか、只にしてくれとかいうことと同じですね。そういう罪人であると思います。「真理」これは聖書は、イエスであると語ります。「真理」は私たちが考えるような、ギブアンドテイクではなく、神からのギブアンドギブであるということ、そこに気づいたのが信仰者です。 しかし、信仰者は同時に「慈しみと誠」「恵みと真理」を同時にうけていきるものでしかないことも知るものです。叔母の例をみると、そういう信仰者は、生きることは、真理の道を歩む事で、神の指示(小さい者と生きる。敵を愛するなど)に従う、死なないと言う事を知り、そこを歩むようになっていくことでしょう。神の御心とは何かを知り、その道を歩む。誠が、真理が、ギブアンドギブであるというとを知ったら自分もギブアンドギブで生きようとする。完全にはできないかもしれないが、それに習おうとする、物を買う時は値切らない、そして、感謝のチップを払う、お金がもったいない場合は、せめて感謝の心だけは示す、そんな生き方を選んでいくように思います。 さて、そのような生き方は可能なのでしょうか?