創世記31章1節~21節、マタイ10章34節~39節 
説教「平和の共同体の心得―虐待から逃れる」讃美歌21:37、534、537

最近、大津市で中学生のイジメの問題があり、自殺した中学生がおりました。三重県津市では校長がイジメ問題に対応して自殺した例が紹介されています。
イジメ、虐待、どうして人間はこんなにたくさんおかしなことを繰り返すのでしょうか?
先日、子育ての研修の場で、「褒めて育てよ」ということが言われていますが、褒められることが少ないからなんでしょう。

8月は平和を考える月としていつも終戦記念日が15日に参りますが、戦争といえどて、虐待、ハラスメントのような暗示がしますね。

ある虐待される家族に関わったことがあります。逃げてきたんですが、専門の相談員から聞きましたら、逃げるのが正解なそうです。暴力を甘んじて受けることはしてはけないそうです。

虐待の記事が新聞等に連日のように出てきています。現実問題たくさんあるようですが、逃れることが必要な場合があるようです。

本日の聖書の箇所、創世記は、ラバンのヤコブに対する態度が以前と変わって、全財産を奪われたような、被害者意識といいますか、財産の取り合いに負けた無念、悔しさなど、妬みのようなものもあったのかもしれません。
ヤコブにしてみれば、20年も使われた身でした。妻と財産を得るためとはいえ、とても、身に過労とか怪我とか病気とかに教われるようなこともあったような危険な状態であったと思います。6節:全力を尽くして働いてきたのに、ラバンはヤコブを騙して10回も報酬をかえた、とあります。全力を尽くすような、かつ、危険な状態で、しかも、報酬を騙される、これは、ちょっと耐えられない。しかし、神はヤコブに害を与えることはなかった、とヤコブが語っているように、心身共に元気だったようです。子どもも12人できました。そして、その神が、ヤコブに、告げます。「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」また、夢に出て言います。「目を上げてみなさい。雌山羊の群れとつがっている雄山羊はみな、縞とぶちとまだらのものだけだ。ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべて私には分かっている。わたしはベテルの神である。かつて、あなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。」とお告げがあったのです。ベテルの神、これは、創世記28章10節以下に出てきますが、「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへいっても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
といってくれた主なのです。ヤコブの請願は、「神が私と共におられ、私が歩む旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるのなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一を捧げます」というものでした。

虐待とも言える、ラバンから、帰るように神からの啓示があったのです。
主の約束を果たすためです。虐待から逃れよと、神様から啓示があったと考える事も出来ると思われます。

さて、今日の新約聖書の箇所ですが、平和ではなく剣を、というところです。
「わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に
娘を母に
嫁をしゅうとめに
こうして自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。また、ご自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」とあります。

ここは、平和の主がなんでこんなことをいうのだ。旧約聖書の十戒にも両親を敬えと書いているではないか、おかしいと思うところでしょう。

しかし、ですね、実は、ここは、私は読んで安心するところですなんです。なぜならば、父親と私は敵対するような関係にあったからです。神様がそのようにしてくださったということなれば、納得もいきます。もちろん、父親を敵視することはいけないことだと思います。十戒の父母を敬え、と言うのも、裏を返せば、敬わない人がいるからそういうのだと思います。

敵対するような場合は、遠ざかってよいし、むしろ、遠ざかったほうが自然ですし、逃げた方が身の安全です。私も父親とは近くにいると、心が安定せず、ダメでした。父親と会話をすると、何かと、それは違う、あんだがおかしい、などというのでした。そういう支配関係が生じていた。致命的だったのが、私が寝ているときだったかと思いますが、父親が黙って、私の日記を見ていたのですが、わたしがそれを注意できなかったことがありました。なぜ、あのとき、「それは失礼なことでしょう、断って見てよ」、とかいえなかったんだろうかと今では、思います。今では個人情報保護法などがあって、プライバシーのことが重要視されていますが、当時はそういう概念もなかったから、おかしいと思うけれども、それを、うまくいえなかったですね。また、父親に対して、私は、敵対しつつ、正しい父親、完全な父親であってもらいたいという気持ちがあって、「おかしいよ」とはいえなかったのかもしれませんね。父親の言う事は正しいけれども、自分が追い詰められていくように思ったのです。離れて暮して本当に自由なれたように正直なところ、思いました。
それは、それで、今日の聖書の箇所あたりから、神様は否定はしていないと思い、安心するわけです、まあ、ずるい、こじつけた解釈かもしれませんが。

しかし、虐待の事を考えるとき、一つ、わからないことが、あるんですね。イエスの十字架から虐待を解釈した場合なのです。イエスは虐待されて死んだ、とも考えることが出来るんです。それが、神様から啓示されたこと、すでに計画にあったことだったのです。なぜ逃げない、なぜ、逃げることが出来るのに、逃げない、なぜ、自殺する、なぜ、人間を人殺しとさせるようなことをするんだ、神から見離されたような、状態にまでなるんだ?という思いが強く私には生じてきます。本日は、ここのことを考えて、終わりにしたいと思います。

なぜ、イエスは、虐待から逃げずに、自殺のような感じで、殺されたのか、ということですね。

それは、いじめられたり、虐待されているままの人、自殺してしまった人、そういう人の立場になって、イエスが虐待に遭い、まるで、自殺するかのように、十字架についた、とも考えられないでしょうか。そのイエスが虐待される人と共に同じように虐待にあったと思えば、虐待されていた人も、なぜ自分だけ、重荷を負わされた意味やや不条理にあったかの意味をすこしでもみつけることができるように思います。何か、自分の対応のしかたに虐待されるような理由があり、自分が罪意識をもっている場合もあるかもしれません。そういう人も、神様も虐待に遭っているんだと思えば、どれだけ罪意識が軽くなったり、なくなったりするか分からないと思います。さらに、虐待する者や殺人も犯した人も、いじめや虐待をする人や殺人までする人の罪をも負い、十字架についたイエスを知った時、自分の罪深さと、イエスによる罪の赦しを知り、悔い改める機会を与えられるかもしれません。十字架についたそのイエスは、虐待された人や自殺された人の立場に立ち、十字架の虐待を受け、その悲しみを和らげ、不条理の意味を見出す機会になっていることでしょうし、また、いじめる人や殺人をする人の罪と罪意識を引き受け、悔い改める機会に導いているということなのではないでしょうか。

イエスはわたしたちを憐れんでいる。
虐待されたら逃げるのが身を守る方法です。逃げていいのです。そして、悲しいかな、逃げられなかった人もいることが現実です。イエスの十字架は、虐待をも引き受けていると思います。自殺など、そのような悲しい、辛い、不条理な暮らしをも引き受けているように思います。さらに、殺人者の罪をも、引き受けていると思います。そして、神は、虐待される人たちには、そういう不条理な自分の暮らしに意味を見出してくれるように導いて売れることを、また、虐待した人へは、悔い改めの道に導いてくれる事を、本日の聖書の箇所から受け止めることが出来ると思います。イエスは、現実問題で虐待を受けている人たち、自殺した人たち、虐待をした人たち、殺人を犯した人へ、加害者、被害者へ対して、深い、憐れみを示したように思います。
お祈りします